図書虫干し・著者と語る会

阿部和行




支部の図書を寄贈した大阪府立中央図書館の好意でその一部を公開する機会が設けられることとなり、一階のロビーにコーナーを設けて、寄贈図書と関西支部所有の貴重な図書を展示した。
 そのコーナーのバックには図書館の手で関西支部の経歴のポスターが詳細に表示されたのと支部会員による山の素晴らしい写真、同じく山のスケッチ等十数点も同時に展示された。
 この期間の3月18日に、著者と語る会が同図書館会議室で開催され、今回は「エベレストから日本百名山へ」として重廣恒夫関西支部長にお話をお願いした。この会に先立って図書館より1593冊を寄贈した関西支部に感謝状が図書館長より贈呈された。



 話は支部長自身の危険も伴った登山経歴に始まり、世界の登山界の登山形式の移り変わり、例えば一般ルートからバリエーションルートヘの展開、そしてバリエーションの冬の登攀、それもピークのみでなくピークからの縦走へと発展。
 さらに困難を求めて冬の岩壁の単独登攣、やがて無酸素登攀への展開。ブロードピークからマッシャープルムヘと発展させるような困難を綴る継続登攀へと発展した。
 だがそれに止まらず、高高度での交差縦走が行われ、さらにエベレスト南西壁でのチェコのアルパインスタイルに到達。



 最高峰エベレストに限って見ると、最初の登頂としては1953年のヒラリー・テンジンがあり、1988年には日中ネ三国友好交差縦走が行われ、8時間余での登攀時間の記録が出現すると、2003年には70歳の三浦雄一郎の登頂で年齢のハンディも問題となった。
 エベレストでの登攀ルートは今や15にのぽり、登頂者数は1922年から2007年までで3565人にのぼっている。
しかし、過去には調査から計画、実行まで全て自分で処理が必要だったのに対して、今は自分の範囲から手が離れてしまって隊員は何もせず3.5sの酸素だけを持って連れて行ってくれる時代になった。このような変化のため、登山能力が大きく低下してきた時代になってしまった。
 以上のように高度な登攀に経験者である重廣氏にして語られる登山界の変遷は大変興味のある話だった。


寄贈資料展「山・岳・嶽」


             図書委員 中谷絹子


 日本山岳会関西支部の蔵書を大阪府立中央図書館に寄贈した記念の催しとして、3月14日から23日迄、同図書館にて寄贈本の資料展が開催されました。展示に当り全ての蔵書を展示するのではなく貴重と思われる本を約250冊を慎重に選んで展示をしました。
 単に250冊といってもその取捨選択は並大抵の作業ではありませんでした。また蔵書の展示と併せて関西支部会員の山岳写真や山のスケッチなど25点の出品を協力していただきました。
 また図書館の資料情報課の方と何度も打ち合わせを行い、蔵書の選択やレイアウト等、簡単なようで大変でした。その作業に図書委員と有志と図書館の協力もあって無事に立派なお披露目が出来ました。
 皆様、時には大阪府立中央図書館に出掛けて関西支部の蔵書と再会して下さい。

府立図書館での洋書の展示について

The Mountaine Wolrd 1958/1959 とThe Fight for Everest 1924

柏木宏信

 何故か洋書の展示についての世話の係りが小生のところに回ってきた。日ごろ山岳書には馴染んできているが、洋書については所有するものも数少なく、また其の殆どが英語圏のもので、それもエベレスト関係のものを中心にしている。
 洋書と言われてまず思い浮かぶのが8000メートルジャイアンツ群の登頂記で、それらが展示できればと考えたが今からでは期日までにそれらを集めるのがとても困難であることは火を見るより明らかであろう。
 自分の持っているもので何とか間に合わそうと書棚を見たところ、次の2件に思い当たった。
 1つはマナスルの今西寿雄元会長のThe First Assault Partyと題された報文で、11ページにおよび折込の3葉の写真からなっているが、残念ながらはじめの見開き2ページのみの展示となった。
 この報文の最後に日本の登山装備の″懐炉″に触れておられるが、今の鉄の粉と高所ではどちらが有利であろうか。また外国の登山家に十分よいところが認められたであろうか。この報告の邦訳はルームに公開されています。
 続くもう1件は、1980年9日4日に、大阪科学技術センター中ホールで、関西支部のエベレストの映画と講演のタベが催された。其のときの内容はメモによると、講演会の講師は1924年の第3次英国エベレスト隊の隊員でマロリーとアーヴィンの姿をエベレスト山稜に最後に見届けたN・E・オデール氏と1980年チョモランマ北壁登攀者の現関西支部長の重廣恒夫氏のお二人と映画チョモランマ北壁の記録、クリス・ボニントン南壁隊の記録であった。
 その時にオデール氏に1924年の報告書にサインを戴くことができた。立派な体格の氏のサインは小さなものでその対比に少し驚いた。
 エベレストの報告書でなく、ナンダ・デヴィの報告書ならもっと大きく書いてもらえたかなと思ったりした。
(The Fight for Everest.E.F.Norton and other member of expedition. London Edward Arnold & CO.1925)
 ニューヨーク・タイムズの記者に「そこにそれが(山)あるから」と言うジョージ・マロリーの有名な言葉は、人口に膾炙しているが、その人の最後をエベレスト頂上直下の第2ステップか第3ステップに認めたオデール氏のサインと1999年に翻訳されたヨッヘン・ヘムレグ他のマロリーの遺体を発見した時の報告書の『そして謎は残った』からエベレストを北側から見た稜線の図とあわせて展示した。