紀伊山地参詣道


紀伊山地の参詣道と巡礼

森沢 義信





不動小屋谷道をいく

 院政時代に熊野詣をした上皇・貴族は、京都から熊野本宮まで72(280q)を歩き、さらに28里(110q)の熊野三山(本宮・新宮・那智山)一周を行い、同じ道を京都に戻っています。往復約670qの道のりでした。ちなみに我々関西支部が企画した「紀伊山地の参詣道」シリーズの総延長は、吉野川から熊野本宮までの奥駈道がほぼ100q、滝尻王子から本宮までの中辺路が34q、大雲取・小雲取越えが29q、馬越峠と八鬼山越えの伊勢路が11q、高野山町石道が25q、そして小辺路の70qを加えて合計269qとなります。ほぼ京都から本宮までを歩いたことになります。

 世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」は、吉野・熊野・高野山の三大聖地と、それらを相互に結ぶ「大峯奥駈道」「熊野古道」、それに「高野山町石道」から構成されています。現在は「参詣道」との呼び名を与えられていますが、いずれも本来は僧侶や修験者・山伏などが抖?や巡拝のために利用した修行道でした。宋の五台山等の聖地巡礼を真似て平安末期には成立したといわれる「西国三十三所観音巡礼」も、これら宗教人の重要な行道として修行大系に組み込まれていました。三十三所の寺院の多くに熊野神社が勧請されたり、役行者堂が残されているのは大峰・熊野との当初からの関連があるからです。

 10世紀に始まる上皇・貴族・武士の熊野参詣は、修験の僧侶の先達のもとに始まりました。熊野三山の参詣ルートは紀伊半島の西側から海岸線をたどる「紀伊路」と、伊勢神宮を経由して東側から下る「伊勢路」があり、後に高野山と熊野本宮を直接結ぶ「果無道(中辺路)」が加わりました。熊野詣の主要幹線である「紀伊路」は田辺で、海沿いの大辺路と山間部を行く中辺路に分かれますが、本宮に直接向かう後者が特によく利用されました。しかし当時の道路は踏み分け道程度の悪路も多く、海路が利用されることもしばしばで、全行程が陸路となったのは、白河上皇の熊野詣以降に参詣が隆盛となり、道路の整備が行われた12世紀初頭のことでした。
 平安時代末には信仰の純粋性が失われ、行事が形式化して、社寺参詣の数量偏重が目立つようになったといわれます。たくさんの社寺に参詣して、しかも参拝する度数を増やしたため巡礼が流行しました。度数を重ねることにより、その神仏の加護や功徳をより大きく享受することができると考えたためです。後白河上皇の34度を含め4人の上皇が二桁回数の熊野参詣を行っているのはそのいい例証です。9上皇で103度の熊野詣が行われているのです。上総の国のある地頭のごとき者でも毎年熊野に詣でたという記録があります。巡礼には千社詣や京都百塔巡礼・南都七大寺巡礼等があり、観音信仰では西国三十三観音巡礼のほかに、七観音詣・百観音詣等も行われていました。吉野山や山上ヶ岳に多く見られる、登山回数を彫り込んだ大峰登山供養塔もこの流れを引くものと思われます。

 高野山町石道は、空海が高野山開創のために、慈尊院附近に建設管理基地(政所)をおき、建設資材を運び上げた道でした。高野山からは紀ノ川・十津川・有田川の支流が流れ出しているため、その谷に沿って高野七口と呼ばれる七つの登山路が付いていました。平安時代には上皇・貴族らが、このうちの高野街道西口ルート(町石道)を高野山参詣の正式ルートとして利用したため代表的な参道となり、鎌倉時代には幕府の要人や武家・公家・庶民の浄財により、20年をかけて二百数十基の花崗岩の五輪卒塔婆が建立されています。現在も鎌倉時代の塔婆が約8割以上現存しているといわれます。

 「大峯奥駈道」は、平安時代後期には吉野から熊野までの道が一本に繋がっていたと思われますが、大峰山脈の脊梁をたどる難路であるため、昔も今も僧侶や山伏の修行の道として生き続け「参詣道」としての性格はほとんどありません。他の参詣道に比べて、過去に大量の記録を残してくれた貴族等の参加がなかったことは、当時の奥駈道について知りうることが乏しく残念なことです。

 現在の日本文化の基礎がつくられたのは、農・工業生産力が高まり、富裕階層が出現した室町時代であるといわれています。これをうけて、室町時代後半から戦国時代にかけて経済的・時間的に余裕のできた農民・商人が山伏や遊行僧に導かれ熊野参詣道や高野山・西国観音霊場に姿を現し始めます。従来、宗教人の専断の霊地とされたり、貴族や地頭級の武士にしか参加できなかった聖地・霊場に新しい信者層が参入してきたわけです。
 江戸時代になると、世情が安定し、交通事情もよくなったため、信仰と物見遊山をかねた社寺参詣が盛んになり、老若・男女・貴賤を問わず一般庶民が独自に団体を組んで参加します。ある調査によれば、元禄時代には西国三十三所観音霊場の巡礼者数が、年間1万人を下らなかったとの推定がなされています。このことは、熊野古道にも同数以上の人々が訪れたことを意味します。

 近畿圏の霊場・参詣道には特に関東・東北の人々が多く見られました。経済力のある上層農民が主であったと思われますが、東海道・中山道を下ってきた彼等は、まず旅の第一の目的である伊勢神宮に詣でた後、伊勢路をたどり新宮・那智山へと歩きました。西国観音霊場第一番札所の青岸渡寺で納経した後、大雲取・小雲取を越えて本宮に参拝、中辺路・紀伊路を経て二番札所の紀三井寺に向かったのでした。彼等は第三番札所の粉河寺に参拝してからは、ほとんど例外なく寄り道をして高野山に登り金剛峰寺や奥の院に詣でました。登りには最短の麻生津峠越えを利用しましたが、第四番の施福寺に向かう時には町石道を下って行くのが一般的であったようです。また第六番の壺阪寺を出ますと、当然のように吉野山に向かいました。近畿圏内の社寺や古道を総なめにするような勢いで旅をしたようです。関東・東北の巡礼は、話し言葉の最後に「べえ」が付くところから、参詣道沿いの村人たちからは「奥州べえ」「関東べえ」と呼ばれていました。

大峯奥駈道も山上ヶ岳までは、山伏・先達に引率された信者や一般庶民で賑わましたが、体力や出費が足かせとなり奥駈をするものは少なかったといわれています。せいぜいが小篠宿で宿泊し、そこで前鬼産の土産を購入して、奥駈をした気分で下山していたようです。熊野に向かい奥駈をしたのもやはり関東・東北の信者が多かったということです。奥駈道を歩いた修行者は玉置山で奥駈を打ち切りとし、船で新宮に向かったり、熊野川を渡り本宮に詣でたりしましたが、どちらにも訪れずに小辺路を経由して高野山に向かうことも多かったようです。
 明治時代には、神仏分離・神社合祀などの政府の宗教政策により、仏寺、神社ともに大きな影響を受け、参詣道を歩いて霊場を訪れる巡礼は激減しました。そして戦後、歴史街道の修復や社寺の観光地化が進み、世界遺産登録を受けて熊野や高野山を訪れる観光客は増加していますが、巡礼の姿は消えました。                    (森沢義信: 写真も)