大峰奥駈道 第六回

支部山行 05-04   


新井  浩



奥駈道より大日岳、釈迦ヶ岳、孔雀岳


大峰山奥駈けの道は、前鬼から先を「南奥駈け」と称しているが、その昔はブッシュが生え、倒木が塞ぎ、険悪な道と化し、長年にわたり見放された修行道になってしまっていた。従って、通常は南半分をカットし、前鬼口からバスにて南下し、熊野三社を参拝し帰途につくのであった。しかし、今では南奥駈けの道は、多くの人の努力により、切り拓き復活し、且つ山小屋も整備され、新設小屋も出立つ、楽に歩くことが出きるようになった。が、なんせ地理的に遠くふべんであることから、依然として秘境的存在である。 世界遺産に指定され、注目を集めだしたことは喜ばしい。

2005年5月13日(金)15時近鉄八木駅に集合。計18名。小型バスで出発。
 17時半、バスは前鬼橋を渡って右折し、前鬼へと登る。一方が早い渓谷沿いの道。ふどう七重滝を車中から見下ろす。近づくとなかなかの迫力ある滝だった。ニッポンの滝100選に選ばれている。トンネルを出たところで、道路が崩れており通行停止。下車。支度をして歩き始める。対岸に真紅のシヤクナゲを見る。開花の好シーズンにキたものだと胸が躍る。今宵の宿泊地である小仲が近づく。その上の急峻な峰を仰ぐと、尖った岩峰の先端が認められた。てっきり大日岳1593mと思ったが、あとで小仲のご主人に伺うと蘇莫岳1525m(太古の辻のすぐ南)であると判明した。

 18時20分、薄暗い小仲に着く。畑地を前にした石垣のあるシキチに行者堂を中にして母屋と宿泊所がある。ここまで舗装道路が通ているのに驚かされた。61代目を継ぐ五鬼助義之氏の出迎えを受ける。まずは四月の月例山行で、釈迦岳からの下りで一人が前夜ふみんんでふちょうとなり、急遽小仲一泊となったことの御礼を述べる。その時つき添いで居残った高村(京都支部)さんから託されたお礼状と写真を手渡した。

 入よくのあと、築5~600年の母屋で食事(皆の下山スピードを減速したお詫びとして、缶ビールの差し入れあり)のあと、就寝。すべてセルフのシステムであった。ストーブの上のお茶を各自の水筒につめる。明日の尾根歩きでは水場が無いので、私は二本をいっぱいにした。

 ふとんの中にニマイもモウフをシヨウし横になる。寝入る前に、JAC元会長の今西錦司先生が、1000山登山の節目に釈迦岳を登り、その祝賀会が新宮山岳会の支援の下、小仲で開かれたことを思い出す。1978年夏、今西先生76歳の時、しきりに紀南の山々の三角点めぐりをしていた頃だった。この時、先々代五鬼助氏の長男としてようしょう時をここで過ごした義之氏は、オジから連らくを受け、大阪から家族ぐるみで手伝いに駆けつけたとのこと。夜中まで「雪よ岩よ♪」と大騒ぎだったですねと、義之氏は覚えておられた。

夜中にトイレにたったが、私は20年ほど前に留守の小仲に泊まっており、星空の下で盛大な焚き火をしたことを覚えている。そして暗い山中からの山犬の遠ぼえるを聞いていたので、暫し耳を澄ましたのであった。が、今回は何も聞こえてこなかった。なお、この時私共四人分の宿泊代を指定場所に入れて帰ったところ、受領御礼のハガキを貰った。きれいな女文字で五鬼助義とあった。丁重さに感心したものである。



5月14日(土) 晴れ。
 よく眠れたせいか、いざ行かんとの気がみちてくる。作務衣のご主人と眼鏡の奥さまに見送られて出発。6時。きついのぼり道も、世界遺産登録に合わせて木の階段が新しく設置されており、段差の出き栄えもよろしく楽に登ることが出きた。両童子岩あたりでは、シャクナゲ・アカヤシロ・オオカメノキの赤・白の花が山道を彩っていた。青空の下に峠のスカイラインが見えてきた。太古の辻に8時に到着する。開けた気持ちのいい笹原である。目の前の釈迦岳・大日岳が迫力を持って大きく眼前に立ちはだかっている。釈迦岳の峰続きで右に孔雀岳が屏風のように屹立している。立派なサンヨウである。前回これらを越えてきた面々は、「登ったんだ」、「いや信じられん」、「しんどかった」とのいろいろな思い出で、じっと見つめているのであった。



背較べ石のところに「ここより南奥駈」(大峰奥駈衣会)の大きな一本のヒョウジバンが立っている。ここが今回のスタート地点である。南奥駈け道は、江戸末期頃から山伏の修行が行われなくなり、猛烈なブッシュが生え、倒木も至る所にあり、通行ふ能と化してしまい、途絶えてしまったのである。神仏分離令のせいかとも思われる。昭和になり、古い記録を見ると、2mからの篠竹を掻き分け強引に難関突破し、身心ともクタクタとなって踏破したとあった。1975年に一部の修験者がこの開道に着手し始め、ようやく南奥駈け縦走の曙光が見え始めた。1979年に大峰ハ衣会の前田氏が持経の宿に山小屋を建設されたことはトクヒツすべきことで、以後岳人たちも大峰縦走を試み始めたのである。前田氏は小屋完成後間もなくになくなり、その意志を引き継いだのが、新宮山岳ぐるーぷ(玉岡憲明氏)である。1984年から刈り拓き作業が為され、「千日刈峰行」と名づけまい年実施され、見事に歩きやすい峰道を完成された。更に1990年、行仙の宿に山小屋を建設され、修験者や岳人に便宜をはかる等、その大尽力たるやつたないことばでは記すことが出きないほどである。

さて、南へ縦走する山々には、曼荼羅になぞって経典ゆかりの名前がつけられている。難しい名前が多い。まずは蘇莫岳へ。岩上で仙人が舞いアソブところとか。下から仰いだ岩峰のイメージは無い。つまり東側は切り立った絶壁であるが、その反対側の西は穏やかな山腹であった。道は西側にあり、このあたりから、シャクナゲ・アカヤシロが次々と鮮明な艶やかさをみせてくれた。石楠花岳1472mを通過し、天狗山1537mにいたる。9時半。幹を叩くキツツキの音や山鳩の鳴き声などしきりに耳にする。

嫁越峠という熊笹の峠に出る。10時20分。女人禁制の大峯山にあって、3尺巾だけ女人の横断通行が許されたところという。かっては、西の十津川花瀬から東の前鬼に降りる急峻な道があって、その途中に小池の宿があったが、現在は残念ながらその所在地はフメイとなっている。謎の第31番靡きである。約800年前、西行ホウシがこの地をオトズレて、歌を詠んでいるのだから恐れ入る(山家集)。
 
地蔵岳1464mでは、南のはるか先に特徴ある笠捨山1352mが認められた。アップタ゛ウンを重ねて淡々と歩いてきたが、腹の虫が鳴き出し、遂に11時、平らな開けた草地で昼食となった。東方に大台ケ原の山並みを見ながらであった。ここで柏木氏がアンテナ塔のある行仙岳1227mを見出した。丁度笠捨山の手前内懐に位置し、尾根の緑が溶け合っていて見にくいのであった。はるか遠い先の行仙岳が今回の目的地である。

般若岳1328m・滝川の辻を通過。12時半、剣光門・笹の宿跡で休憩。ここに大きな木がシンメを出していた。「何の木?」 倒木形のハッパが偽輪生状にワカバを伸ばしていた。ホオノキだった。峰にはホオノキの大木がかなり生えていた。ヨダンだが、上向きに花が咲くホオノキと、下向きに咲くオオヤマレンゲとをかけ合わせて、ウケザキオオヤマレンゲという新種がメブイている。
涅槃岳1376m・証誠無漏岳1301mを通り、14時半、阿須迦利岳1251mに着く。大木のシャクナゲが花盛りだった。日本の野生シャクナゲは、開花時の花色がすぐ色あせる欠陥を持つと云われている。私たちはグッドタイミングで、最高の紫紅色のお花見を経験することが出来、超幸せではなかったかと思う。赤いシャクナゲを国花にしているのはご存知ネパールである。ヒマラヤ、中国奥地、アジアの山中でひっそりと、あやしいばかりの美しさで咲き続けている。この美しい花を求めてトレッキングに行きたいものである。



ドンドンと下降して行く。青色が目に入る。それは小屋のトタン屋根であった。14時50分、持経の宿に立つ。2~30人泊まれる広さだ。囲炉裏が二つ。薪もヨウイされている。早速水汲みに向かう。400mほど小屋東側の林道を下がったところだった。囲炉裏に火をおこして、お湯を沸かし紅茶が配られる。ほっとしたところで小屋内部を見渡すと毛布が沢山ヨウイされているのが判る。なお、小屋建設者の前田勇一氏(奥駈葉衣会・会長、前述の人)の写真が飾られていた。斜面上に建つ小屋の地階にトイレがあった。なお、マンイチの非常食などヨウイ意されていた。小屋管理はバンゼンである。エガタイことである。一泊の宿泊料は1000円となっている。我がパーティは既に世話役からアラカジメ支払済みであった。すぐ横に行者堂があった。先達の森沢氏は深々と祈りを捧げていた。さすがである。

明るい内にユウショクを済ませる。各自は、かさばらない、軽い、簡単をモットーとした食事をヨウイしていた。あっという間に終了して、なんと18時には就寝。モウフのハイフで無事一夜を過ごした。夜中にショウヨウに立つと、マンテンの星空があった。明日の好天は保証され、安心して再度寝入った。

5月15日(日) 晴れ。



 5時起床。清掃して出発。朝食抜きの早や駈けである。清冷な朝、鳥の声、日の光、ワカメの色、シャクナゲの赤紅色と、聖地の奥駈けムードは最高である。小屋前の林道は二つに分かれて南行しているが、真ん中の尾根道をとる。「千年ヒノキ」の大木、ブナ・ミズナラ・ホオノキ・モミなど。幹周り5mを越す大木を見掛ける。樹高が低くなり樹林の成育環境が良くなったものと思われる。大木には文句なしに尊敬したくなる。ギンリョウソウのグンセイが銀色のブキミな気配をタダヨわせていた。シロヤシロの大木が一ポン、樹形がウエムキで沢山の花をつけマンカイであったのには目を見張った。アッパレ見事! 平らな草地を見つけて朝食を摂る。6時半。
 コル上に平治の宿・山小屋があった。7時10分。持経の宿より一回り小さい小屋であった。囲炉裏が一つ。「修験の道」と額が飾られていて部屋は綺麗であつた。西行ホウシの足跡があるところ。



 転法輪岳1281mから倶利伽羅岳1251mまで来ると、行仙岳のアンテナ塔がはっきり見えてくる。8時。この間の尾根筋は、シャクナゲのオンパレード。しばしば足を止め記念撮影にヨネンが無い。ハナコトバは「威厳・荘重」とあった。ギュウホの歩きとなった。

 8時15分、玉岡氏とパッタリ出会う。暫し雑談に興じる。同氏を知る人が多く、話に花が咲いた。氏を中心にして記念撮影。「行仙の宿・小屋でコーヒーを飲んでいって下さい」とのありがたいいおコトバを戴く。座り込んだ道の横に「第54次刈峰」の記念板が立っていた。5m巾を刈り込まないと、道に竹が伸びて元の木阿弥になるとのこと。道作りは格闘競技みたいなものと知る。玉岡氏は平治の宿をチェックしに行くとのことであった。さて、「横駈け」では、鎖の登り・降りが一箇所あったが、難無く通過する。

 9時半、怒田の宿跡におりたつ。このコルの下を白谷トンネルが通っている。地図で確認する。さて最後の急登にかかる。ゴール目前だ。それほど喘ぐことも無く、明るい台地に辿り着く。枯れ大木に登頂記念プレートが沢山貼り付けられていた。9時55分、行仙岳1227mに到着後ろを振り向くと、緑の尾根越しの向こうに、釈迦岳・孔雀岳が大きくノゾまれた。一歩一歩積み上げて歩いてきたルートを目にして感激する。最高の景観を手に入れ、気分はハイである。喜悦の瞬間であった。西側のアンテナ塔を覗く。西南方向が開けていて、果無サンミャクが見て取れた。この3月に例会で歩いているところだった。



 佐田の辻へ、下降ギミに25分行くと、高圧線が山越えするところ、その下に行仙宿があった。新宮山岳ぐるーぷが独力で建設されたもの。立派さに驚かされる。内部の正面に額がかかっていた。「山林抖擻」(さんりんとそう)塩川正十郎とある。「入峰修行」をイミするが、苦行の修練で神仏と一体化し、奥義を窮める。山岳ぐるーぷの姿勢が読み取れるのである。 コーヒーを頂いて辞す。11時。行者堂を礼拝して、すぐ下の小道を東へ下る。30分で四ノ川林道に降り立つ。すぐに425号線に接続、待機バスに乗り込むことが出きた。
11時45分。あとは一路、山村きなりの湯へと向かう。ニュウヨクと昼食が待っている。14時、バスは池原を後にした。
 無心になってひたすら歩いたが、五鬼助さん、玉岡さんの暖かい心遣いがあり、楽しいワスレがたい思い出となった。世話役には厚く感謝を申し上げて終わりとします。
                                             新井 浩記す。

(写真 : 浦上、中島隆、森沢義信、ヨシムラ嘉一郎)

【期  日】 5月13 日(金)~15日(日)
【参加者】 新井 浩、岩崎しのぶ、内田昌子、浦上、柏木宏信、久保和恵、久保三朗、滝川、中島 隆、中谷絹子、廣田、宗實二郎、森沢義信、ヨシムラ嘉一郎
(会員外)柏木純子、篠原ひろみ、前田孝、山科  (計 18名)