大峰奥駈道 第七回

支部山行 05-05   行仙宿から玉置山、五大尊岳、七越峰、備崎へ


新井  浩


玉置山山頂より宝冠の森

 奥駈け道も2004年4月10日の柳の宿(六田の渡し)から、分割実施七回目を重ね、いよいよ熊野本宮大社に詣でるまでになった。紀伊山地の脊梁も徐々に高度を下げ、ついに旧社地の大斉原のある熊野川の河原に下り立つのである。長い長い峰歩きであった。

2005年6月11日(土)
 7時、近鉄八木駅集合。16名。予報どおり雨の一日となる。小型バスは一路国道169号線を南下。通い慣れた道。下北山村から十津川に抜ける425号線で白谷トンネルの手前へ、四ノ川林道に入る。やや明るいガスの中、白ウツギ・山ツツジが咲いていた。バスは小鹿の散歩を邪魔して、遂に登山口に到着。

9時50分。雨合羽を身につけ、赤い鉄階段を登り始める。この「行仙宿補給路」は短時間で稜線の奥駈け道に達することが出来る。鉄塔を過ぎれば、新宮山彦ぐるーぷ管理の行仙山小屋に到着。10時40分、早い目の昼食をとる。ここの土間では、山ヒルが尺取虫スタイルで膝まで這い登ってきたのに驚かされた。

 さて、ここからが今回の奥駈け道のスタート。雨は本格的に降ってきた。11時15分出発。本日のゴールは玉置神社である。但し稚児森の南で舗装道に出るので、完全縦走はそこまでとし、手配した車で玉置神社駐車場へ向かう手筈となっている。それでも到着は18時過ぎと予想された。

 大峰南端の高峰・笠捨山1352mの姿は、この悪天では見えない。十津川発電所からの高圧送電線の下をくぐる。ここは尾根唯一の開けたところであるが、展望はガスの中。残念。4回ほどアップダウンを重ねて頂上へ。12時50分。自然林の展望の無い山頂だったのが、南北の二面が伐採されていた。シャクナゲの木が哀れだった。また、変な道祖神が祠に納まっていた。展望得られず前進する。雨の中、下り道が続く。

 葛川辻への道を左にやり過ごし進む。岩場と鎖の連続となる。高圧線鉄塔の傍を通過。急峻な岩峰の登り。足場、ホールドはしっかりしているものの緊張を強いられる。シャクナゲ・リョウブの目立つ岩稜であった。新しい鎖があり、どうやら亡くなった人の追悼を意味しているようだった。何分雨の中、ガスに包まれており、山の姿、谷の様子は分からない。目の前を注視するのみ。切り立った細い岩場に細心の注意を払う。大木のシャクナゲは花期を終え、いまや茶色の花がらを地面に敷き詰めている。立派な満開の花を想像しながら踏みしめる。岩稜を廻り込んだ狭いコルに「槍ヶ岳」の小さい石碑を認める。槍ヶ岳は迂回したのであった。真上に向かって攀じ登る。まさしく修験者の行場だった。
 14時15分、地蔵岳1250mの山頂は狭かった。この山にふさわしくコウヤマキがあり、若ミドリ葉が眩しかった。あまりに狭い山頂のため、休憩場所を求めて通過し、少し下って一息入れる。14時35分。

 ルートは厳しい下り道で、鎖を使用したり、樹木にとりすがったりで、難行苦行の連続であった。東屋岳1230mは、いつの間にか通過していた。「拝み返し」「桧の宿跡」を通り、鉄塔の開かれた場所に出る。鹿の声がする。15時30分。三度目の高圧線くぐり。香精山1122mは直ぐだった。那智青岸渡寺の真新しい碑伝が目を引く。悪天と濃い樹林の中のルートは、夕方のように暗い。神経を使う下り道だった。難関の下りもほぼ終了となった。ここで思い出されるのは松浦勇次氏(元京都山岳会会長、日本山岳会京都支部所属)の行方不明事件である。平成4年10月13日のこと、玉置神社を6時に出発、10時半頃上葛川の集落を通過、これを最後として消息を絶つ。予定は、笠捨山経由行仙小屋へ、玉岡氏と落ち合うというものだった。一週間にわたって捜査活動を行うも不明であった。悲しい出来事であったが、副産物として国土地理院の地図の誤りを見つけ修正を求めたことだった。このあたり、複雑な地形であることを充分認識する必要がある。

 コルに下り立ったところで、先行を託された。ルートは何の変哲もない林間の道だった。真っ直ぐ行くのみ。両手のストックに力を入れてグイグイと歩く。面白味の無い道では、歩くことに精を出す、一心不乱がいいのである。それにしても長い下り道であった。大岩の貝吹金剛を通過。暗いスギ林の中の下り道には嫌気がさしてきた。古屋の宿跡通過。17時、如意宝珠岳736m。スギの美林の中、暗い足元に注意しながら、「もう少し、もう少し」と言い聞かせながら足を前にだす。葛川トンネル上の尾根道も中々厳しい下りだった。

 岩ノ口を過ぎ、稚児森の南へと下る。突然、樹林を抜け出す。右のがけ下に林道があり、手配の車が待機していた。17時20分。上葛川の旅館「うらしま」の主人で、16時半から待っていたという。私は、久しぶりの再会だった。暗いガスの中、雑談に興ずる。今朝、やまと八木を発つてきたと話すとビックリしておられた。追い着いてきた人と共に第一陣として、八人乗りの車で出発。17時45分。皆の熱気で車の硝子窓が曇る。車中から花折峠・展望台・かつえ坂を濃いガスの中に認める。玉置神社の駐車場に着く。18時。すぐ車は折り返す。

幸い雨は止んだ。社務所宿泊については、世話役芳村さんの人脈に負う。彼の案内で神域を歩く。枕状溶岩、杉の巨木など説明を受けつつ、社務所にいたる。濡れた身体は早く脱ぎたがっている。嬉しいことに狭いながらもお風呂があるという。早速交代で入浴する。
30分後、後発隊が到着する。全員が人心地のついたところでお膳につく。「神代杉」なる一升瓶の差し入れは、芳村氏のお陰で、有難く頂戴した。食事は山の上というのに、内容充実の結構な幕の内でした。明日は水場のない長丁場である。用意していただいた麦茶を水筒に詰める。セルフで布団を敷いて就寝する。

 6月12日(日)晴れ
 5時起床。朝食は5時半から。予報どおり雨は上がっており、気持ちよく準備が出来た。出発前に社務所(重要文化財)内の襖絵を見学させていただく。250年前の狩野派の絵師による花鳥図で井上宮司さんの説明を伺った。パソコンで「玉置神社」を検索すると、それは詳しく玉置神社及び巨木についての解説が得られるので、下手な紹介は止める事にする。とにかく日本の創世記に出てくる由緒深い所だと云っておこう。

 玉置山1076mの山頂へ向かう。社務所から、シャクナゲの群生の中、15分の急登だった。小広い丘状の開けた山頂だった。東の展望が良い。昨日と違って晴れ上がった景色を眺め、気分は爽快である。ご機嫌よく記念撮影に収まる。7時半。
 社務所にお礼を述べ、いざ出発。私はここで御神符を貰い損なってしまった。悪魔退散というご神徳があるというのに。「熊野なる玉置の宮の弓神楽弦音すれば悪魔退散」、五月中旬の一週間が、しゃくなげ祭りという。出直しを誓う。

 さて、本殿を参拝し、杉の巨木に最敬礼する。ここで巨樹について一言したい。アメリカの巨木公園の一角に大要次のようなプレートが掲げられているという。「幾多の自然の災害に耐え、生き抜いてきた巨木の生命力は、神の加護があったからである。願わくば更に生きて欲しい。神よ守り給え。そして生育を妨げ、死滅させるのが人間でないことを祈る。アーメン」肝に銘じておきたい。

 8時15分、本宮辻(玉置辻)に立つ。車道があり、やや広場風のところ。林間の奥駈け道に再び挑戦の歩みをはじめる。旧篠尾辻でルートは西へ右折する。途中振り返ると玉置山が見えたが、みどりの平凡な山並みである。いささかガッカリした。高さから見ても止むを得ないことであろう。大森山を通過し、次のピークが三角点のある大森山南峰1045mであった。樹林の中で展望はない。9時25分。
 ここからは急な下り坂で岩場もあり、危険である。なにを隠そう、見事滑って尻をついてしまったのである。架線場跡を通過し篠尾辻で休憩。あまりに急峻な下りで草臥れてしまう。10時20分。

 急な登り返しで五大尊岳825mに着く。狭い山頂であった。不動明王の石仏が安置されていた。あたりはシャクナゲなどの自然林であり、展望はない。11時15分。ここで待望の昼食となる。社務所で頂いたお弁当は「めはり寿司」だった。細いのが二本、太いのが一本。それにゆで卵一個。なんと美味しかったことか。夢中でかぶり食べつくしてしまった。

 急な下り道はまだまだ続く。特に言うこともなし。大黒天神岳574mで13時40分。ここまでくれば、終点ゴールも近いと気が緩む。地図を見れば本宮町のテリトリーに入っているし、すぐ西側を熊野川が流れている。昭文社の「大峰山脈」地図では、裏側の左隅下の位置にまで来ている。もうお終いとの感覚が生じても無理もないことである。しかし、これからが長いのであった。更に、高度も下がって、暑さが厳しく感ぜられるようになってきた。急激な温度上昇で、体力の消耗が激しくなる。

 高圧線の鉄塔を通過、伐採箇所通過などなど。熊野川の大きい川幅を俯瞰する。下流に「下向橋」が見えた。14時40分、山在峠265mの宝篋印塔の木陰で休息する。林道をしばらく歩き、吹越宿跡で右の尾根道をとる。「本宮大社への近道」との標示を無視して、さらに南下の里山歩きに徹する。奥駈け道をひたすらに歩くとの命題遵守なのである。疲れてはいるが、ここは意地の見せ所。
 吹越峠の電波塔を見送り、下っていくと、「ささゆり広場」に出る。遊戯具・トイレ・芝の広場と整備された公園だった。この先の木の茂った小山が「七越峰」262mである。新しい木の手摺りを伝って登ると、西行法師の歌碑があった。

「立ち登る月のあたりに雲消えて光重ぬる七こしの峰」 西行は自らの足で奥駈け道を歩き、各所で歌を詠んでいるが、歌碑があるのはここだけである。西行といえば桜であるが、険しい峰を歩くと、月との対話に終始する。秋、満月の頃だったせいかとも思う。私は碑前で何度も口ずさんだ。
 最後の力を振り絞って、備崎への尾根道を歩く。修験者は備崎で熊野川を渡って、本宮へ満願達成のお礼参りをするが、私たちは備崎橋のたもとに待つ車に拾われ、川湯温泉に向かった。ここの水準点は、58.4mであった。笠捨山からアップダウンを重ね、1294mを二日がかりで下ってきたと云える。旅館着、17時半。

 帰宅後、「備崎経塚群」の存在を知った。平成13年から調査され、石室の内部床から薬師如来像が平成14年2月に発見された。青銅製で、台座を含めて総高7.1cmの小型立像で、平安時代末期の資料として重要とのこと。いにしえの人達が経塚を建て、祈りを捧げた場所として、「備崎」の名前を忘れてはならないと思う。
 ところで、玉置山から南の山々は、紀州・木の国そのもので植林された里山の連続で、面白味に欠ける。玉置神社参拝のあと、本宮辻(玉置辻)から玉置川を下り玉置口へ、瀞八丁を経験して北山川を舟でくだるというルートが一般化されれば、どれだけ面白いことか。かって修験者も竹筒に下り、川舟でくだったとの記録もある。決して邪道とは云えまい。また、現行の靡きは75ケ所となっているが、その昔は120ケ所もあった由、時代に合わせて変化しているのである。自然愛好の現代向きにルートを修正しても良かろうと思う。さらに云えば、この最南部尾根筋ルートは、奥駈け道とはいえ文化遺産登録から脱落している部分なのである。

 6月13日(月)晴れ
 川湯温泉で一泊し、のんびりと出向かえバスを待つ。10時、熊野本宮大社を詣でる。平日はすいている。国道168号線も同様で、青空の景色を珍しそうに眺めながら帰る。



それにしても、昨日の延々と続いた尾根道では、水分欠乏症となり、やっとこさゴールに到達するや、ガブガブと飲んだ水のおいしかったこと、打ち上げ宴会でのビールの美味かったこと、などなどが思い出される。「七越峰」とは、七つどころか沢山の山を越してきたことを意味すると実感した次第、忠実に奥駈け道を辿った関西支部登山隊に祝福あれ!
世話役さん、同行のみなさん、いろいろと有難うございました。 新井浩 記す。

(写真 : 浦上芳啓、中島隆、芳村嘉一郎)


【期  日】  6月11日(金)〜13日(日)
【参加者】 新井 浩、浦上芳啓、柏木宏信、久保三朗、滝川敏康、竹村洋三、戸島泰二郎、中島 隆、中谷絹子、宗實慶子、森沢義信、芳村嘉一郎
(会員外)柏木純子、前田孝夫、蓮川博凡、山科邦彦  (計 17名)