支部報本号の2頁に浅野初子氏の思い出が掲載され、そのカットに掲題の表紙と裏表紙が小さく載っている。この会報が一般の方々の目に触れるのは、これが始めてではないかと思われる。このカットを入れるため、無理をお願いして浅野さんから拝借し、併せてここにその内容を少し紹介させて戴く。
発行は昭和13年1月、77頁、サイズはコピーの為、不明。発行所はクラブ・エーデルワイス。大阪市東区平野町一丁目。
表紙掲載の2598は皇紀での表記である。内容は、始めに『生ひたち』と会の創立に到る萌芽から、藤木九三氏命名による「アルプスのシンボル・エーデルワイス(深山うすゆき草)に因んで、女性らしくクラブ・エーデルワイスと」決まる。ここに至るまで、昭和11年1月に、大鉄局の婦人スキーツアーが山陰の但馬高原で、わが国で初めての女性対象のツアーとして開かれたことが契機となり、2月に参加した人達が集まり、会として誕生した。
まず12年2月に大山スキー合宿が持たれた。コーチに大鉄局西川正治氏、JAC山中正之助を招き、A班、B班の編成で上田安子、長谷川静子の両氏をリーダーとして実施された。続く夏山合宿は槍ケ嶽、穂高嶽と、秋山の合宿は「新雪の甲斐駒・仙丈」と女性ばかり三名で(長谷川静子、森田元子、上田安子)。このとき、駒へは強い雨のため、六方石から六合の小舎にトラパースした。「長衛の言葉によると、このルートを通ったのは女性では私達が最初だそうだ」と。この後も「大台夜行記」、「春の奥穂行」、「四月の立山」、「後立山縦走記」、「小槍登攣」などが続く。
当時の社会情勢にあって、何と進んだ女性達だったのだろう。
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