田中邦彦さんが、脊髄損傷による多臓器不全で一年にわたる闘病の未、逝れて一年になる。
田中さんと1950年夏、坊主の岩小屋をベースに、小槍、北鎌独標などに登り、剣岳に向った。二人とも登山靴は、ザックに付け地下タビで歩いた。登山靴といっても私のは旧陸軍の軍靴である。テントは田中さんの手作りで、使いやすく工夫されていた。後に自衛隊需品専門職幹部として入隊し、天幕、スキー等の冬季資財の設計、試作、実用試験に従事することの下地であったと思う。当時は、山岳戦と稀して登山とスキーばかりしていたと、後年笑っておられた。この山行中、田中さんのカメラは見たが、スケッチを見ることがなかった。晩年は、スケッチが山歩きのテーマであった。
バイクによるスケッチ・ツーリングで「日本一周スケッチ展」を、神戸北野の異人館で定期的に開催している。また、世界各地特にネパール・パキスタンに足しげく通ってスケッチをしている。
絵は、学生時代から続けているが山川勇一郎氏の1978八年のジューガル、ランタンヒマールのスケッチを見て、ザックに画材を忍ばせるようになったと。
そして山川氏が「二・三人のポーターを連れて自由にヒマラヤを歩き絵をかきたい」ともらされたことを。田中さんは1993年に山川氏のヒマラヤ画集を携え、氏の足跡を追って満足する旅であったようだ。り足も速くどんどん飛ばしてゆ田中さんは柔道二段で体力もあり足も速くどんどん飛ばしてゆくので行程は捗る。道中の山小屋は、荒れていて、黒部五郎の小屋は倒壊し、屋根と柱だけの小屋もあった。
剣岳では、長次郎を登り、三ノ窓に陣取って、八ツ峰、チンネに攀じて、小窓の頭から、魚津高校生の管理する池ノ乎小屋に入る。関西登高会と同宿になる。阿曽原からトロッコに乗り、宇奈月に出た。
田中さんは、山では厳しい人で、ピッケルを振りあげることもあったが、退役後は、静かなな温和な人柄で母校報徳高校の山岳部を指導された。
田中邦彦略歴

1922年8月31日、武庫都御影町で出生。
1940 報徳商業学枚卒業 東京で家業に従事
谷川岳・丹沢の岩登り沢登り熱中
1943 姫路師団に入営
1946 比島戦線から復員
1949 日本山岳会入会、会員番号3433
1952 自衛隊需品専門職で入隊
1958 佐谷健吉氏の指導で防衛庁山岳会を創設
1964 報徳高校山岳部の指導
1972 防衛庁退職
1990 日本山岳会アルパインスケッチクラブ入会
2007年3月31日逝去 85歳
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