自然の猛威を回避する

重廣恒夫

 登山は自然の猛威に曝されることの多いスポーツです。これまでの登山の歴史を振り返ってみても、自然の猛威による多くの事故が発生しています。そして事故のたびに、その原因について調査・分析がおこなわれ、事故防止の対策がとられてきました。しかし、多くの事故報告書や事故対策の啓発書が提出されているにもかかわらず、社会生活の中での作業所や交通車両の事故と同じように、山岳遭難事故は日常茶飯事起きています。
 昨年の11月23日には上ホロカメトク山の沢筋で北海道支部の会員の方々を雪崩が襲いました。また12月31日の深夜、槍平小屋付近に幕営していた登山者のテントも雪崩に潰され、多くの死傷者がでました。いずれの事故についても、日本雪氷学会北海道支部や防災科学技術研究所雪氷防災研究センターによって、雪崩の起きた原因や今後の事故防止策が検討されています。
 私が雪崩の恐さを目の当たりにしたのは、黒部の岩壁を登り始めた頃からです。1968年夏、日本最大の岩壁である奥鐘山西壁に新ルートを築くべく、クラブのメンバーと志合谷を下つていました。目の前には黒部第3発電所の建設工事のために建てられた冬営宿舎の無残な姿がありました。この無残な姿は1938年12月27日夜半に谷の上部で発生した巨大な雪崩によるものでした。巨大な雪崩で押し潰され、建物の上半部は爆風に吹き飛ばされ、宿舎にいた84名が犠牲になりました。その遺体や建物の残骸は対岸の尾根を越えて600mも飛散したのです。これが「ホウ雪崩」の破壊力です。冬の西壁を登るために宿舎跡の地下壕から1週間も様子を窺っていたこともありますが、多発する雪崩に手も足も出ませんでした。
 1973年3月、故・高見和成さんと西壁の京都ルートから清水RCCルートの継続登攀をめざして入山しました。京都ルートの終了点に到着した頃、気温が上昇して上半部の雪と巨大ツララの崩落がはじまりました。雪崩の危険を察した私たちは、以後の登撃を断念しました。
 ヒマラヤに遠征するようになつてからは、自然の猛威に翻弄されることばかりでした。そのほとんどは雪崩です。1973年のエベレスト南西壁では、悪天候で孤立した上部キャンプに食料補給に向かう時に雪崩に遭いました。C2を10分程遅れて出発した直後、シェルパ達の雪崩で埋もれた姿を発見しました。数人のシェルパを掘り出してC2に下りましたが、1人のシェルパがいないのに気がつきました。その後も悪天候が続き、雪崩の多発するコースでもあったので二重遭難を避けるため捜索を中断したことは今でも忸怩たる思い出です。
 1979年にはカラコルムの未踏峰・ラトックl峰に行きました。ここは、雪崩と落石の頻発する山でした。BC建設後、ずっと悪天候が続いていました。天候は回復せず、岩壁に取り付いてからも降雪が続き、岩壁のいたるところからスノーシャワーが降り注ぐコンディションでした。ルート工作を終えてC2に戻った日、胸騒ぎがしてClまで下りました。しばらくして我々の下ったルートを轟音と共に雪崩が襲い、その爆風はつい先ほどまで使用していたテントを直撃しました。翌日、C2とおぽしき地点まで登り返しましたが、岩壁にはちぎれたハーケンが残っているだけでした。まさに、大型ブルドーザーで削り取られたような有様で、テントもザイルも食料までも跡形もなく消えていました。
 1980年はチョモランマ北壁登山隊に参加しました。5月2日、最終キャンプを出発して頂上に向かいましたが、前日からの小雪が降り止まず8550mで登頂を断念しました。数時間後、下降する第1次隊と交代するためC5に向かっていた2次隊の小林・宇部両隊員を突如雪崩が襲いました。午後7時20分、小林隊員と合流しましたが、ザイルに繋がれた宇部隊員の姿はありませんでした。翌日、捜索の結果、標高差2000mを滑落した宇部隊員の遺体が北壁の基部で発見されました。
 1985年はカラコルムの未踏のマッシヤブルム北西壁を登りましたが、56日間のうち13回の雪崩に襲われました。ルート上に張り巡らした固定ロープ3500mのうち、登山終了時に回収したロープはたったの50mでした。これはほとんどのロープが雪崩で切断したり、埋まったりして回収不能となったためです。登頂を目前にした夜、テントが雪崩に襲われました。私は6人用のテントの奥に寝ていましたが、瞬間的に顔を腕で覆っていました。3人のうち、入口に寝ていた山本宗彦隊員が動けたので、2名はスコップで掘り出してもらうことができました。でも、救出されるまでの30分間は恐怖の時間でした。埋まっている間、テントに全身を覆われ動かせる部位はない、体が
冷えてくる、そして雪がしまりはじめ体がしめつけられる、という最悪の状態でした。また、登頂した後、6500mのプラトーを横断しながら後続する隊員をビデオ撮影するため立ち止まりました。その直後に背後のセラックが崩れ、雪崩が背中を通り過ぎました。運が良かったと胸をなでおろしました。
 1991年のナムチャバルワ峰は悔恨の山となりました。10月16日午後1時30分、C2の静寂を無線機からの音が破りました。「C3からC4に向けて登攀中に雪崩が発生した。木本哲隊員は自力脱出したが、大西宏隊員が行方不明となった」というものでした。必死の捜索から15分後、雪の中から右手だけ出ていた大西隊員を発見。掘り出して救命処置を施しましたが、残念なことに蘇生はなりませんでした。降雪直後の雪面の脆弱さは認識していたはずでしたが、好天を迎えて逸る隊員を制し、留めることのできなかった私の失敗でした。
 「往くべきか、退くべきか」という判断には過去の経験が問われますが、多くの情報が集積されても、それが生かされないのは、自然界でおこる猛威が予見できないからです。歴史の長い山小屋が、雪崩に襲われて場所を変えてきた現実をみてもそうです。事故のたびに、登山経験の豊富な登山者がなぜ事故に遭うかという報道がなされます。
 しかし、数十年の登山経験など自然界の猛威や現象とは尺度が違います。ましてや年をとるに従って登山のレベルと自身の能カが低下している現状を踏まえれば、蓄積された経験から導きだされる判断力というのも低下していると考えるべきです。雪崩に遭遇しないために、雪の状態のチェック法などが研究されていますが、雪崩の予測はまだ実用の域に達していません。雪崩対策用具の準備と携行も怠ってはなりませんが、その使用方法を熟知していなければ役に立ちません。危険を予知する能力と、予測された危険度をどのようにとらえて行動するかは、登山者の判断に任されています。自分の身を守るのは自分でしかありませんが、経験した以上のことを判断するというのは最も困難なことです。登山には運が左右する場面も多いのですが、運を掴むためには、根気よく、勘を磨くこと以外にないのかもしれません。