追悼 久保三朗さん
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金井 健二
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2005年11月発行の大阪大学山岳会「後立山からヒマラヤヘ-- 戦後半世紀の歩み」に久保さんの「JAC関西支部の山行」という一文があります。JAC入会の経緯も語っておられますが、昭和27年入会で先年永年会員の表彰も受けたという大古参の会員でした。文中、久保さんはご自分の登山を「登山には心の内面の喜び、例えば、良い音楽に出合うような、そういう感動を求めるという志向も強いが、私の山行は初めからこれだった。」と分析されていました。 「それでこそ運動能力の衰えたこの年齢に至るまで山に行こうという意思の源泉が涸れることなく続けてこられたのだと思う。」とも述べられています。私はこの久保さんの登山に私自身の登山を重ねて、大いに共鳴するところがありました。
昨年5月の比良・釈迦岳への山行でも、相変わらず元気だったと聞いた後で、軽い脳梗塞で入院との情報を貰い、自宅に数回電話してみましたが通じないまま、秋の 「変化題」で無事回復とのご本人の報告も読み、またリハビリも兼ねて夙川でのコーラスの練習も芦屋の自宅から往復徒歩で再開していると聞いて安心していました。今年のJAC閑西支部新年会では久しぶりに会えることを楽しみにしていましたが、今度は私が不覚にも直前に風邪をひき、チロル・スキーヘの出発が翌々日に迫っていたためドタキャンしてしまいました。久保さんも元気になって出席されていたとのことでしたので、新緑のころには再会できるものと思っていました。
4月末の御岳スキーの際に、病状が少し深刻らしいとの様子も聞きましたが、それほど差し迫ったものとは思っていませんでしたので、急逝の知らせを受けたときは愕然としました。そして、新年会の欠席があらためて悔やまれたことでした。
久保さんと私の出会いは、今西壽雄さんが関西支部長になられて間もないころ、井関さんの担当で始まった月例山行が盛んになって、湖北の山へのスキー登山が繰り返されていた頃でしたから昭和50年前後だろうと思います。長い東京勤務から関西に帰られた直後で、以後、何回となく山行を共にさせてもらいました。関西支部の山行委員も長年続けられ、お世話になった会員も多いと思います。月例山行以外にも、沖の山や土倉岳など近郊の山から、八甲田山、立山、乗鞍、苗場山などの春スキーや、最近では12月の志賀高原初滑りなど何回となくご一緒でした。私が参加した支部山行の記念写真では、大抵久保さんと一緒にカメラに収まっていますから数えきれないくらいです。尤も、10年くらい前からは若い方の私が体力に自信をなくし、山スキーには付いて行けなくなりましたが、久保さんは相変わらず元気で、3月の三支部合同のスキーツアーではいつも中心メンバーでした。最初のチロル・スキーは久保さんとの合作でしたが、音楽好きらしく「モーツァルトに敬意を表して」とザルツブルグの日帰り旅行に行かれたし、二度日のチロル・スキーでは、久保さんに先導役をしてもらって滑ったドロミテのセラ・ロンダの右回り、左回りのコースが、支部報にも詳しく報告されています。このコースはその後のチロル・スキーの目玉として定着しました。共に下戸で甘党の久保さんと私は、近年のヨーロッパ・スキーでも食事のボリュームに辟易し、僕等はお子様ランチでいいんやけどと変なところ意見が一致していました。
常に地図を手放さず、自家製スパッツで足元を固めた独特のスタイルの久保さんの姿は忘れられませんが、GPSのようなその久保さんと、もうスキーにも山にも行けなくなりました。まことに寂しい限りです。山、スキーそして音楽を愛された久保さんのご冥福をお祈りする次第です。
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山下 政一
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大日ケ岳スキー登山 (1980年3月)で最初にお会いして以来、25年以上も久保さんと「山とスキー」を楽しみました。「ふたりはよくご一緒ですね」と尋ねられると、久保さんはいつも「なんとなく馬が合ってね」と答えていました。無意識の中にも心の通じ合うものがあったと思っています。
スキーのこと
久保さんの山行きの特徴は未知への憧れでした。山スキーでも余り知られていない山やルートを求めていました。山スキーの上谷山(1981年4月奥美濃)から栃ノ木峠、鉢伏山から判官堂尾根(1984年4月加越国境)、笈ケ岳(1991年4月)白山自然センター背後のスキーが使えない複雑な支尾根からのロング・コース日帰り山行は久保さんの面目躍如たるものでした。
但馬、奥美濃、福井を舞台に久保さんらしい山スキーの報告を1980年代から閑西支部報に12回も寄せています。当時、山行の度に前後の行程を上手に利用して次のスキー登山の下見をされていました。支部合同スキー山行「モッカ平の頭」はこうした下見の成果によるものです。やがて山スキーは活躍の場をJAC・アルパイン・スキークラブに移してオートルートにも足を伸ばされています。
ゲレンデスキーでも度々ヨーロッパヘ行かれました。関西支部チロル・スキー初めてのセラロンダ両回り(右回り、左回り)ツアーの印象を「ドロミテの大景観の中、終生の思い出に残る素晴らしいスキーの旅を味わうことができた」と関西支部報に記されています。
支部合同スキー(関西支部、京都支部、後に福井支部)は第一回(湖北ブンゲン)から第二十回(三国ケ山)まで皆勤で参加されています。三支部合同スキーがこんなに長く続けられているのも久保さんの活躍が大きな推進力だったと思います。
地図のこと
久保さんは山の同定も熱心で『関西支部報69』に「我が家からの高見山 池小屋山も」と題して芦屋市朝日ケ丘の自宅から見える台高北半の山々を同定したユニークな分析と写真が載っています。
ヨーロッパ・スキーでも現地に着くと先ず、書店で現地の地図を購入されました。帰国後に現地で撮影した写真を分析して遠景の山々を同定しながら旅の楽しさを二倍味わっておられました。二人で行ったヨーロッパ・スキーでも丁寧に解説された写真集を毎回いただきました。楽しいスキーの思い出と共に私の大切な宝物です。
コーラスのこと
久保さんはスキーと共に合唱団で活躍されていました。1983年2月の支部山行、氷ノ山は悪天候で日暮れと競って暗闇の迫る直前の神大ヒユツテ到着でした。外は依然として吹雪、残り火を囲んで夜更けを惜しみながら歌ったコーラスの楽しさは今も忘れることが出来ません。
古い関西支部報に挟まれて一枚の楽譜が出てきました。杉山さんの依頼「二部合唱の程度で良いから皆で歌える歌が何かありませんか」に答えて久保さんが準備した「サリマライズ オランダ民謡」手書きの楽譜です。
スキー宿でも興がのれば何時でもみんなで楽しめる歌の楽譜をリュックサックにしのばせておられました。
告別式の最後は久保さんが所属された「セレステイーナ男声合唱団」による「はるかな友に」のコーラスで別れを惜しみました。
「お休み 安らかに お休み 楽しく」ご冥福を心からお祈りします。
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小寺 佳美
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スキーによくご一緒させていただきました。時には指導もして下さり、楽しかった日々が思い出されます。
ゲレンデで、滑っておられる後姿が浮びます。
ご冥福をお祈りいたします。
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