今では山で逢う人達は殆どが中高年の登山者になってしまった。自分もそうだし、これは時代の流れだから致し方はない。ただ、その人達の中で、我々若いときから登っていた者とは違う感覚が横行しているのが不愉快だ。
街を歩いていて気が付くことは、狭い道で若者とすれ違うとき、若者は殆どこちらを避けようとはしない。当たって当然という状態で歩いてくる。だから、仕方なくこちらが避けることになる。その状態を若者は当然と思っているのか、とすれば上長に対する礼を知らないのだ。今では親や学校の先生を含めて、教える人も居ないのかも知れない。その態度が山でも現れている。
細い山道で出会うと仕方なくどちらかが避けるのだが、ゆっくり歩いているパーティに速い人が追いついても、道をあけて先に行って貰おうとはしない。仕方なく速い人が道を逸れてパーティの間へ入り込むと、ぶつぶつと文句さえ言う人がある。いったい山は自分のものとでも思っているのだろうか。道をあけてそれぞれが自分のペースで歩ける自由を持つことを知らないのだろうか。
さらに、中年以上の女性が複数いるパーティで出会うのは、ひっきりなしに話しながら、景色も見ずに歩いていることだ。いったい山へ何しに来たのだろう。自然の中に浸るために来たのではないのか。…単に足腰の運動のためだけに来ているのだろうか。それならデパートの階段を上り下りしてくれた方が有り難い。私達は平素の都会や生活範囲に無い自然の中で、自分の体と心が満足することを求めて山登りをしている。だから、ちょっとした鳥の声や花のそよぎ、微かに聞こえる沢の音。或いは自分の足音しか聞こえない静けさの中で、こころが安らぐのを感じる。
それを求めているときに、いかにも街の騒音を持ち込むことは絶対に辞めてほしい。無駄なおしゃべりはスキー場のスピーカーからの音楽より感情的にはひどい。これらのことは結局平素の社会的な礼儀を教えられていないことから始まっている。戦後に自由という意味を履き違えた世代に育てられた子供が、現在の社会の主流をなしているのだ。だがそんな世代でも規律のある社会環境で育てば立派に礼儀をわきまえた人になっている。
昔の登山家には立派な人が多かった。もともと資産家の家で育った世代のスポーツとして発展したことも原因の一つだが、それよりも、他のスポーツとは違う勝ち負けのない世界で、自分で自分を律する厳しい世界に生きていることが、世間から認められていたからではないだろうか。だが今や登山家と言われる人は少なくなり、登山者のモラルは地に墜ちた。
観客の居るボードクライミングなら若者も参加しているが、観客のいない登山は衰退し、登山者も次第に減少している。日本国内には誰も知らない土地がなくなって魅力が無くなつたのも、他の記録を更新する可能性のあるスポーツとは違う点だ。このままでは登山は明らかに衰退する。その傾向に歯止めをかけようとして今の若者への教育は時代遅れだから、次の世代の子供達を野外に遊ばせるイベントも開かれている。願わくばその時代まで自然が美しさを失わないでいてほしい。登山は結局自然と向き合う行為なのだから。
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