小林治俊君を追悼して
                          奥田寛


 六甲はヒマラヤの道へ通じている、とは大阪市立大学山岳部に入部した一年時に彼が漏らした言葉である。その場の状況はすっかり忘れてしまったが、氷雪の山や海外の高峰にただ好奇心を示すだけの同期の私には、六甲とヒマラヤとがしっかりと繋がる思考回路に驚かされたことが記憶として鮮明に残っている。
 彼が工学部の学生でありながら、学業と登山の両立をきちんと図るばかりか、2年生の3月山行からチーフリーダーとしてその責を全うするのは、まさに当然と言える。
 彼との山行で最も印象深いのは、私が就職直前の3月に出かけた北ア・北鎌尾根である。故後藤君を入れての三人パーティだったが、湯俣川沿いの膿まで潜るラッセル・独標付近の表層雪崩との遭遇・月明かりの下での槍の穂先から槍の肩への下降、など盛り沢山な出来事だった。
 彼は入部以来岩登りを好んでいたが、思うように北アルプス等の岩壁に取り付けない、と悶々としていた。
 それもあって、関西学生山岳連盟OB会の結成と運営に深く関わったと思われる。その集大成がカラコルム・ゲントU峯登山隊の隊長として出かけたことであった。幸い初登項という成果を出せて、安堵と満足を得られたと思う。
 ヒマラヤと言えば、こんなエピソードがあった。ネパールが登山禁止していた時期に、彼はトレッキングを行っている。これは、当会の大先輩がトレッキングをするに当たり、現役学生を一名同行させたい、との申し出によるものであった。
 実は、この話が異なるルートで彼以外に故後藤君と私にももたらされていた。期せずして指定の会合に3名が顔を揃える事態になった訳である。誰を選ぶかに困った先輩方の解決策はジャンケンで、結局彼に決まった次第。今では格好の笑い話である。
 ところで、先頃の阪神・淡路大震災は現実の六甲を直撃すると共に、彼の内なる六甲にも衝撃を与えたと考えている。これを契機に、学問研究に一層の研錆を行って大いなる業績を上げるとともに更なる前進を図る途上にあったと思う。病魔がそれを阻んだのは誠に残念である。
今は冥福‥を祈るのみである。