日本山岳会自然保護委員会会誌『木の目草の芽』第58号より転載


 新 し い 風     

 ― 市民参画と協働について ― 


   田村 義彦


 霞ヶ関の官僚が、数年前に突然“イークオルパートナーシップ”などと言い馴れない言葉を口にして市民に近寄ってきた。市民は、今まで門前払いにされてきた官僚に突然仲良くしようと言われても、すぐには返事ができるはずもなかった。
三十数年前、環境庁が発足して暫くは市民との蜜月時代が続き、課長クラスまではアポなしに会うことができた。ところがその後、環境庁が必ずしも市民の期待に応えるものではないことがわかってくると、次第に不協和音が聞かれるようになり、ついに十数年前からはアポすらとれなくなった。それだけに、突然の“ラブコール”に市民は戸惑った。
 しかし、その理由は、わかれば実に簡単なことであった。環境政策で行き詰まったアメリカで、クリントン政権の時代に自然資源の保全を図るためにエコシステムマネジメントが「救世主」として登場したが、その政策の中身が「市民参加」と「科学性の確保」であった。アメリカ同様、環境政策に失敗して壁に突き当たっていた日本の国交、農水、環境各省は、「アメリカが風邪をひけば・・・」の例にならったという次第のようだ。
 
環境省は一九八九年に自然環境保全審議会に「自然公園の利用のあり方小委員会」を設置して検討を始め、昨年「中間とりまとめ」が発表された。その中に、自然再生事業において法的に規定されている、地域住民やNPO等の多様な主体が参加した協議会のシステムが「自然公園内で行われる主要な事業計画等に取り入れられることが望ましい。」としている。
 大台ヶ原では、環境省が一九九八年度に策定した大台ヶ原整備五ケ年計画に基づいて木道(空中回廊)を設置したが世の顰蹙を買い、二000年で一旦工事を中止して内部で計画を見直した。
 二00二年に環境省と奈良県が自然保護団体、地域関係機関を召集して現地説明会を開いた。行政が事業計画を事前に公開して市民の意見を徴するのは初めての画期的なことであった。
 この現地説明会の意見を入れて再検討された整備基本計画が翌年の三月に発表されたが、空中回廊についての反省が見られず、自然保護団体、山岳会は拒否した。
環境省は再度現地説明会を開催し、一方、利用動向調査・インターネットによるアンケート調査を行って同年十月に再度基本計画をまとめた。内容は、市民の要望を九十五パーセント認め、必要最少限度の整備しか行わないという画期的なものであった。正に、コペルニクス的転換であった。
翌二00四年、この基本計画に基づいてコンクリートを使わない伝統的工法・空積み石段によって、登山道整備の範足る施工が行われた。空積みの歩道は近来稀な猛台風と豪雨に耐え、更に冬の大雪にも耐えて施工技術の確かさが立証された。
 現地説明会はその後大台ヶ原で二回開催され、この八月にも開催される。一方大峰山系においても本年七月に開催され、やはり八月にも開催される。参加者は当初は環境省が指定したが次第に枠が広げられ、この八月からは事前にHPで公表されて一般市民も予約をして参加できる形になった。

 一方、大台ヶ原・大峰の自然を守る会は一九七八年に『大台ヶ原の自然保護と利用への提案』を発表して以来、情報公開と市民参画を求めてきたが、二00二年に大台ヶ原自然再生検討会が設置された機会に委嘱を受けて、利用対策部会に初めて参画した。それ以後、大台・大峰関連の検討会・懇話会は公開で開催されるようになり、市民が参画して対話できるようになった。
三年かけて策定された大台ヶ原自然再生推進計画の利用計画八項目のうち五項目は守る会の年来の提案であった。
 
市民参画についてガス抜きだとする言い古された高踏的批判がある。従来は確かに当っていたであろうが、現在では時代錯誤の批判と言いきれる。自立した市民として行政と対話できる場に着くことには、従来のような野良犬の遠吠えとは異なる大きな意義がある。
 行政との対話の中で、登山と自然保護の基本理念を堅持するために、サーカスの綱渡りに似た緊張を強いられる。綱から落ちないためには、研ぎ澄まされた感性と行政を納得させ得る論理が求められる。外野から野次っている方がはるかに楽である。行政と市民との対話、協働はまだ実績も少なく、評価も定まっていないだけに、すべてが試行錯誤の連続であり、身を削る作業である。

巷では、冒頭に述べた“パートナーシップ”“対等の立場”が、さも当然のように語られているが、それは違う。巨大な権力、資金力、情報量を持つ行政と、力も金もない市民とが「対等の立場」に立つことなど本来有り得るはずがない。市民にできることは、対話(異議申立てと提案)に過ぎない。情報公開、市民参画の決定権を行政に握られていることを意識した緊張の中でこそ対話に意味が出てくる。
 パートナーシップなる言葉は、徳川時代以来の永い官僚機構の中で民百姓を軽蔑して権勢をほしいままにしてきた官僚が、いま、環境政策の失敗から、心ならずも市民の声に耳を傾けざるを得ない、時にはそのポーズをとらざるを得なくなったために、不本意ながら口にしているに過ぎない。
 この空疎な言葉を信じて、雨後の筍のように輩出したNPOが、僅かな補助金欲しさに行政ににじり寄り、補完的な行為をしている姿は醜悪である。戦後六十年、民主主義は未だ成熟せず、衆愚政治に馴れ切って自立できない国民が、奉仕の精神のないまま商業化して、さりとて「専門職でもない不気味な素人集団」(曽根綾子・一九九七)を形成して行政に安上がりに利用されている。この醜悪な関係は「市民参画」とも、「協働」とも無縁なものである。

 国際的に新しい風が吹き始め、時が動き始めたことを最早とどめる事は出来ない。しかし、経験のない「市民参画」について市民は軽率であってはならないと思う。市民が、ただ集まって汗を流せばいいというものではない。
登山はもともと無償の行為であることに価値を置いた。ここ数年の「参画」は同じ想いである。
       

 (日本山岳会関西支部・大台ヶ原・大峰の自然を守る会)