私が日本山岳会に入会したのは、今は亡き諏訪多栄蔵、岸田権二の両氏にヒマラヤヘ行けるぞと勧誘されて、それでも魅力を見出せなくて2年ほど突っ張ってやっと1957年に入れてもらったように思う。それは私の叔父が松本高等学校一回生で山岳部を作ったときに後輩だった篠田軍治さんがされていた関西支部長を、水野祥太郎さんに交代されるときだったが、その総会で驚いたことに諏訪多さんから、私を入会と同時に委員に任命するという動議が出されて了承されたことだった。
関西支部は当時梅田新道の大阪貯蓄銀行ビル(その後協和銀行ビルとなった)の三階の、好日山荘の向かいの部屋だった。西岡一雄さんが健在でポロクソに言われたりしながらも、西岡さんの話を聞きによく通ったものだ。
このルームは戦時中に焼夷弾が飛び込んで、机の一部を焼いたという物語があるが、協和銀行が改築するため立退き料を貰って、1957年に老松町の日新ビルヘ引っ越した。そのときの立退き料が銀行の利子で膨らんで現在の資産になっている。
先に移転していた好日山荘の援助もあって引っ越したが、このビルはなにしろ湿気がひどく、蔵書が心配で再び1966年に引っ越すことになった。大阪市役所にいた岸田さんの計らいで、市立の靭公園のスポーツマン会館だった。ここは各種のスポーツ団体が雑居している建物で後から加入した山岳会は肩身の狭い思いをしていた。後日、支部長で建築家今西壽雄さんがこのビルの屋上にルームを建て増しできないか検討されたが、戦時中の焼けビルだったため駄目だった。そう言えば、戦後靭公園が東西に長く伸びて滑走路になり、小型機が発着していたのを見たことがある。スポーツマン会館はそのときの指令塔だった。
次に支部長になられた印判事業家の津田周二さんは多少商売気があって、神戸のオニツカに話をして布製登山靴を日本山岳会の検定品として売り出す計画を作り、本部の了解も得たうえで、当時日本工業規格の検査を担当していた私が規格と検定案を作成し、工場調査をして1958年に検定品を世に出したことがあつた。そのときに手数料収入ができたので、津田支部長の提案で支部報を発行することもできた。
この頃は登山の興隆期の最中で、支部では海外登山の報告講演会が盛んに開かれたが、諏訪多さんの提案から登山技術の研究会が、1957年から1962年まで25回継続して開催され、私は事務局をまかされて忙しい目をしたことがある。
日本の近代登山を切り開いた藤木九三氏の業績を願彰するため、氏のレリーフを佐藤久一郎氏に依頼して作り、岩登り発祥の地となった芦屋ロックガーデンの入り口にはめ込んで、今日まで藤木祭を続けることになったのは1963年のことだ。
海外登山が盛んになるにつけ、その国内外の手続きの問題から、外貨申請の組織を一本化せよとの外務省の意向から、それまでばらばらだった登山界を日本山岳協会一つに纏める方向が打ち出され、そうなると孤高を誇っていた日本山岳会は日本山岳協会の下部組織となるため、その説得に加藤泰安氏が1965年に来阪されたことがあった。今では外貨は自由化したので組織の統一は必要ないのだが……
海外登山と言えば関西支部は消極的で、1963年に神戸の会員たちが藤田博さんを隊長にして台湾の玉山に出かけ、1960年代には阪大によるP29でアタッカーが墜死したことから登頂が問題となり、支部で再度目指すかと今西氏から提案され動き始めたとき、住吉仙也氏の望遠写真が登頂の合図を捕らえていて、支部の計画は中止された経過がある。1983年には今西さんの意向から中国のボゴダヘ8名で出かけたが成功しなかった。1984年から85年にかけて、支部50周年記念トレッキングをネパールヒマラヤで実施した。そして2004年夏、大西保氏を隊長として西チベット学術登山隊が派遣され、多大の成果を挙げる事ができた。
先に蔵書の心配を述べたが、ルームをスポーツマン会館に移転したとき、会館には蔵書を保管できるスペースがなく、支部長の今西さんのビルに預かってもらうこととなった。1966年以来39年に渡る期間になる。その間、今西組社屋の移転で新社屋の完成を見ず今西壽雄さんは亡くなられたが、私達の心配した図書保管は新社屋に図書庫が用意されていて、今更ながら壽雄さんに感謝したものだ。
そして1997年に図書は新社屋に移転することができた。これらの蔵書目録は1980年に一度発行されたが、その後も増加したものを加えて2003年に4200冊にのぽる全部数のリストが完成された。
会長として今西さんはときどき東宮へ伺って皇太子と山の話をされていたようだ。そんな関係から皇太子の百名山のうち、1990年の大峰登山に奈良山岳会と関西支部がサポートすることになったが、今西さんは既に足が不自由で参加されず、私にお付を命ぜられた。何故私だったのか詳しくも聞かなかったが、今西さんの命令だからお受けすることにして同行させてもらった。どうやらその当時の私の言動が皇太子の日常には異色だったのか、いまだに年次晩餐会でお会いしたとき私の名前を覚えていて話をされることがある。
ところで今西壽雄さんが水野祥太郎氏から支部長を引き継いだ在任期間は22年になる。
後半には次期支部長の話をされたりしたが、私は話を避けていた。ところが1986年に今西さんは会長に就任されて支部長兼務という異例の組織になってしまったので、これは放置できず、今西さんの指示で私が支部長に就任した。以降19年もの間の単に支部をお守りしてきただけの時代を終え、次年度からの発展に希望を託して終わりたい。
|