好日山荘と
あれは私が四国から就職のため大阪に出てきて少し暮らしに慣れた昭和25・6年頃、途絶えていた山登りを始めるために、どこかの会に入れてもらおうと考えた。しかし何の伝もなく、古い山の本を思い出して、梅田新道にあった有名な好日山荘を恐る恐る訪ねてみた。
店は入り口から右側にガラスのケースが窓近くまで並んでいて、ケースの中にも、後の壁の棚にも、反対側の左側の壁にもいっぱい道具が並んでいて、窓際の机に座っていたのは大賀さんだった。どうせなら立派な会に越したことは無いと、山の本に出ていた一つ覚えの山岳会の名前「RCCの会に入れますか?」と唐突に聞いたものだ。
時代外れの私の問いに大賀さんは笑いもせず「RCCはとうの昔に解散して今は何も無い」と田舎出の何も知らない私に教えてくれたが、なんと変な男が来たものだと思ったに違いない。
好日山荘には当時西岡一雄さんと大賀さんと水口さんがいた。いっぱい装備が並んでいるが素人の私にはとりあえず必要な登山靴とか、赤い糸の織り込まれたアーサービールのザイルとかが目に付いた。しかしどちらも私の財布では手が届かない。ムガーとクリンカーの鋲を打った中古の登山靴の出物があって念願の登山靴だけはやっと手に入れることができた。
一つの段階が達せられると次の目当てを物色するのは人の常で、その意味では好日山荘は私にとって尽きることのない宝の山のようなものだったから、買う当ても無いのに通いつめては馬鹿な質問をして西岡さんにポロクソに言われたりした。でもこの大先輩の話は一言ずつが私の勉強になった気がする。
また、用も無いのにこの店にくすぶっていると、有名な登山客が現れて西岡さんと駄弁っていくことがある。こうして水野祥太郎さんや諏訪多栄蔵さんなど私と遥かに段の違う先輩たちの顔を覚えたし山の話を聞くこともできた。
冬になると好日山荘は狭いので支部のルームの机の上ヘスキーを持ち込んでビンディングやエッジを取り付けたりしていたので、見ているうちに自分でエッジの取り付け方を覚えてしまった。しかしそんな仕事にルームを使用するについて、誰か山岳会の人から勝手にルームを使うなと言われたのかもしれない。水口さんは人が訪ねてくるたびにルームでの仕事を気にしていた。
そんなある日、私と水口さんがルームにいる時、のっそりと大柄の人がルームの入り口で中を覗いて黙って好日山荘へ入って行った。上は長袖のワイシャツにまだ新しい国防色のズボン姿。しかしそのズボンは軍隊の支給品では無さそうに見えた。
何となくあたりを払うその人の空気に、一瞬水口さんはしゃべるのを止めて小声で私に「今西さんや」と知らせてくれた。ほう、これが聞いていた今西さんか、そう感心したのを覚えている。
関西支部が昭和10年9月1日に設立されて、それまでにルームを物色していたのだろうが、結果的に好日山荘の入っていた大阪貯蓄銀行ビルの3階にある好日山荘の隣の部屋へ入ることになった。契約は貸室料月40円、付帯費が3円、そして敷金は3か月分の120円だった。でも敷金の出何処がなく、三木高嶺氏が自分の勧業債券拾円券12枚を立て替えることによって支払われた。
一月後、本部からの敷金120円を別宮貞雄氏が受け取ったが、急いで支払うこともなかったのか、当分の間経費として流用することにしてしまっている。債券を提供された三木氏への返却はどうなったのだろう。三木氏の出資ということだろうか。
その後好日山荘の向かいの部屋が空いてルームは移転し、それまでの部屋は物置として残った。私が知っているのはルームを移転してかなり時間の経った頃だが、この部屋に朝鮮戦争での遺体を入れて運んだと言われていた放出の寝袋が放り込んであって、好日山荘の物置になっていたように思う。私達には羽毛でなくても羽根入りの新しい寝袋など当時は手に入る筈もないので、寝袋が入荷したとの知らせがあると早速訪れて、幾つも引っ張り出しては汚れてなくて羽根の減っていないのを一生懸命探したものだ。
関西支部ルーム
ルームを持つと毎月経費がかかる。解っていたことではあるがそれは馬鹿にならない負担だ。10月8日にルーム開きをしているが、11月には早くも2円で水曜日に限り貸し部屋を始めている。その収入は微々たるものだったようで、部屋を移ったために家賃も高くなって支払いがしんどくなってきた。そこでルーム維持会員の制度を作って当初は40名79口集まったが、集金するのに因ってだんだん集まらなくなって立ち消えになったらしい。
昭和9年度の支部経費は233円、10年度は300円、11年度に本部と予算の折衝をした記録では、貸室料500円その他を加えて1000円の予算を800円に押えられている。この予算の中の図書購入費も削られた結果、当時盛んになっていた関西支部の対外志向を絶やさないため、支部図書購入資金を一口5円で募集して成績がよく、引き続きアルパインジャーナル、ヒマラヤンジャーナル、ジオグラフィカルジャーナルなど外国図書を購入している。
今では当時のルームを知っている人も少なくなった。北側はガラス窓で書棚を立ててあり、廊下を隔てて好日山荘があり、東側の璧に木製の古びた大きな本棚が座っていた。南側は剥げちょろけた壁で大きいヒマラヤ全域の地図が掛かり、西側は鉄のサッシの窓が二つあってその間の壁に足立源一郎氏の油絵が掛かっていた。
終戦直前の6月1日にこの窓から焼夷弾が飛び込んで事務机を焼いたらしい。そのために当時支部役員であった富田健一氏は貴重な図書を守るべく東奔西走されて空襲からの難を逃れることができた。関西支部が戦後復活というか再生して現在の姿を保つことができたのも富田さんの並々ならぬ御努力のお陰である。
部屋の中には古ぽけた机が三つ並べられ、その周りにいずれ劣らぬ古ぽけた木のベンチが何脚か並んでいた。家具といえばそれだけの殺風景な部屋だったが、古ぽけた本棚の中の図書はかなりの価値のあるものが並んでいた。
一番上段に並んだ赤褐色の装丁の「ラ・モンターニュ」は奥貞男さんから、三木さんから「アルパインジャーナル」、高橋健二さんから「独墺山岳会報」を威厳をつけるために借りたものだ。
いつか今西さんに「奥さんに返すのですか」と聞いたら「古いことでもう忘れとるやろし、津田さんが了解取ったらしいから返さんでええ」との返事だった。
その他にも外国の図書や国内でも入手できない本もあって、それが少しずつ無くなっていくと話題になったことがある。しかし部屋や本棚に鍵が掛かるわけではなし、私は何日も掛かってリストを作ってみたがどうしょうもなかった。ある特定の委員が本を借り出してそのまま返さないという風評まで立ったことがあるが、本当のことはわからない。
研究会
1914年に第一回研究会が開かれた。既に日本は戦争に突入していたからテーマも「非常時下の食料について」とか「山伏と尊皇」といった戦時体制向きのものだった。
翌年の昭和17年(1942)には山岳研究講座が大阪毎日新聞の講堂で夏は五日、冬は三日にわたって開催されている。
このときの夏のテーマ
登山と探検 露営技術 森林作法 登山と国民練成
登山の装備について 砂漠の体験 山岳信仰の変遷 岩登り術の基礎 登山の文化史
冬のテーマ
スキー術の変遷 雪中露営 登山に於けるスキー術の変遷
氷河地形の観照 北と南 登山用短スキーについて
これらについて山岳会の名だたる人が講師となって講演し、後日この結果を纏めて2巻の『山岳研究講座』として出版した。
関西支部報の第1号が出た1958年頃、諏訪多栄蔵氏の提唱で関西支部の研究会が始まった。その趣旨は、登山ブームが到来したが基礎技術ができていないと成功は無い。今後リーダーとなる人達に基礎を十分勉強して身に着けてもらおうとの目的で、昭和32年6月(1957)から昭和41年12月(1966)に至る間に25回と回を重ねる長期的な研究会だつた。
会場は朝日新聞の会議室だった。一般に呼びかけたから町の山岳会のリーダークラスの人達が沢山集まった。それまでは個人的に他所の山岳会の人と付き合いがある程度だったが、この集まりが知り合う機会を作った。そんな動きを見ていた諏訪多さんは交流のグループを作れば更に発展すると考えたのだろうと思う。
というのは昔、RCCが解散した後、しばらくRCCグループの集まりが続いた経過があった。それに倣って名前も当時の「岳」を使って何回かの会合を持ったが、遂に纏まることなく終わった。それは私達が見ても関西の町の会は「のれん」の権威が強くて、それぞれの会の業績を上げることが第一で、会から足を踏み出して交流することなど考えられなかったからだと思う。
この感覚が変化するのは20年近く経ってから、やっと自由に交流する、高い水準の個人同士でパーティーを組んで成果を挙げる行動が見られるようになった。諏訪多さんの願いはこんなところにあったのではないだろうか。
登山ブームの中で大学の山岳会を主体に次々と遠征に関西からも出かける隊が現れた。社会人団体の登山隊も加わり始め、誰もが海外登山とりわけヒマラヤ遠征を目指す傾向だった。
それらの中で1961年に大阪市立大学が未踏のランタンリルンを目指し、当時関西支部の委員をしていた森本嘉一さんが隊長だったが、出かける直前の委員会で森本さんは 「登るでえーー」とファイト満々の様子だったのを覚えている。それから数ケ月。ギャルツェンと共に雪崩に流されクレバスに閉じ込められてしまった悲劇は、関西支部の人々に忘れられない衝撃となった。(続く)
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