日新ビル
日新ビルは老松町の真ん中にあって、周りには飲み屋など真っ直ぐには帰りにくい雰囲気があった。梅新からルームヘ行く途中の左側に、青い大きな提灯をぶら下げて店の名前も何も書いてない変な店があった。ルームでも話題になったが誰もわからなかった。
一度偵察するかという話になって、ルームの帰り道、私が提灯を分けて入ろうとしたら、『止めとけ!』と梶本さんの叫ぶのが聞こえた。ついさっきまで見に行こうと言っていたのに急に止めたのは、下手すると引っ張り込まれてボラれるかも知れんと感じたからだろう。お陰で何事も無く収まったが、当時ルームはそんな処にあった。
好日山荘はこのビルの入り口右側に店を構えていて、ルームは廊下を突き当たった左側の部屋だった。前のルームから運んだ本棚や椅子、机が並べられたが、空気の通りが悪く、夏は暑くて苦労した。これを見かねて神戸の藤田さんから質流れの扇風機一台が寄贈されて少しは息をつくことができた。
そんな或る日ルームヘ行くとルームに泥棒が入ったという。それは大変と傾きかけた本棚の中などを調べてみたが、貴重な本は泥棒には価値がわからないのだろう、被害らしいものはなさそうだ。そのとき誰かが「扇風機が無い」と言い出した。成る程無い。泥棒の家も暑くて困って質流れ品だけ持って行ったのか。
風の通らない奥まった部屋だったから湿気がひどかった。ルームの正面にどんと据えていた本棚の底の方が怪しくなって傾いて、本を取り出してみるとじっとりと湿っている。山の貴重な本が沢山並んでいるのにこれでは本を腐らせてしまう。そん
なことも原因でこの日新ビルから引っ越すことになった。このルームではいろんなことが討議され、海外遠征隊と称していた時代の多くの隊が出かけた登山ブームの真っ只中の時代だった。
スポーツマンクラブ
西区の靭公園は戦後進駐軍の軽飛行機の発着場になっていた。私が見たのは公園の部分が南北の道をつぶして東西方向のひと繋がりの滑走路になっていて、セスナが発着していた。スポーツマン会館は発着の指令塔になっていたと思う。
いつ飛行場が閉められてのか知らないが、その後の管理は大阪市役所が当たっていて、公園関係の仕事を会員の岸田権二さんが担当していたらしく、その関係からスポーツマン会館の事務所を借りることができた。
と言っても当時、スポーツ団体が既に幾つも入っていて、山岳会は事務所の片隅の机と椅子を一つ借りてロッカーを一台置く事ができただけだった。事務所に他の団体がいないときは事務所を会議室に使用できると考えていたのに、結果的には二三回使用しただけで、以後は会議室を借りて打ち合わせをしなければならなかった。
そんな不便もあったが、場所が梅田に近くて集まりやすい便利さと、周囲が公園の大きい樹に囲まれて環境がいいこともあり、一階にレストランが入っていて、帰りに一杯やったり、会合にビールや軽食を出してもらうこともできた。
一番の問題は事務所にスペースが無いので図書の保管ができないことだった。この点を心配されて今西寿雄さんが、今西組の休養室の一角を図書室として提供され、以後、今西組がビルを建て替えて移転した現在まで39年間もの間使用させてもらって今日に至っている。「虫干し」と称して支部の本を閲覧する機会を設けたのもこの頃からだった。今でも虫干しは続いているが、土日の会社の休日に当てているので、会社を開けてもらう担当者に出勤して貰うことになって心苦しい。
今西さんはこの会館の屋上に建物を増築して、関西支部が占用することができればと提案されたが、ビルは戦時中に火災に遭っていたので増築はできないそうだった。やはり今西さんが、アパートの適当なものがあれば借りたらどうかと提案され、場所は忘れたが一つ見つかったのだが、狭さと費用の点で沙汰止みになったことがある。
当時会議室を借りるのも8,000円程度の費用が要ることもあり、こんな事情から、何とか自分たちのルームが欲しいという意向が高まっていった。
図書のこと
最初に少し図書のことに触れたが、現在支部に保管されている図書の元は戦前に集められたものが主体を為している。それも海外のものを購入するなどして世界の事情を知ろうとする熱意が感じられる。戦後も津田支部長の時代にジオグラフィカル・ジャーナルを或る期間購入したことがあったが、どれだけの人が読んだことだろう。特にこの雑誌は海外の山の正確な地図が付録として挿入されていることが多く、人気があった。
今西組に支部の図書が保管されているとき二木さんが亡くなられて、所蔵の本をご家族からのご提供で頂くことになった。
以後各氏からの提供で増加したが、ちなみに提供者別に文庫と名付けて分けると
戦前からの在庫 882 冊
今西文庫 1,113 冊
二木文庫 777 冊
梶本文庫 627 冊
阿部文庫 294 冊
スポーツマンクラブ
554 冊
合計 4,347 冊
内重複本 504 冊
以上の通りとなる。スポーツマンクラブは会館の図書室に保管されていた山の関係の本を、支部が移転するとき持って行ってくれるよう頼まれたもので、これだけの冊数を誰が購入していたのだろうか。
こうして支部の蔵書は増加の一途を辿っている。支部としては重要な資産ではあるが、これの保管についての問題が出ている。現在の古本の運命が軽くなってしまったことによるのだが、今までの経過はかなり古本の価値が認められていた時代だった。
特に戦時中に途絶えた海外の情報への渇望と、登山行為の中断が戦後、登山への回顧を促した結果また高値を呼んだ古本も、今では見向きもされなくなって嵩高いゴミに成り下がったのであろうと思うが、数十年以前からの情報の過多と国内外の有数の山の登頂経歴及び登山形式の変化によって、登山そのものの衰退傾向もまた本の価値を低下させて来た。
いまや古本の価値を認識する社会情勢ではなくなってきたように見えるが、一方、残っている古本はまたと得難い貴重な記録である。それは登山の歴史そのものであると言っても良い。
例えば陸上競技の世界記録などは次々と破られた記録がいつまでも残されている。それはその競技の歴史なのだ。その意味での貴重な記録は永く残されなければならない。
特に登山は、他の兢技とは違った範疇の、例えば文学的、絵画的、精神的、そして危険度の大きいスポーツという特色がある面でも、その記録、歴史は重要である。
その一方で本の嵩の問題、広く読まれるための保管形態、そして管理の問題がある。これらを満足するには価値の低い本を廃棄するしかないが、価値の判断にも個人差があってすっきりとはしない。それからすると、先ずは重複本を処分することに着手すべきであろう。
兵庫支部
記録によれば1950年に津田周二氏より兵庫支部設立の提案が本部に出されたようである。
その経過は解らないが、翌年に本部で話を取り止めたことになっている。
私が委員をしているとき、支部長だった津田氏から兵庫支部設立の意向を伺ったことがある。
そのときは新しく作りたいように聞いたが、以前の蒸し返しだったのか、それとも再度の提案で再び否決されたことだったのだろうか。
その元には兵庫県内の会員数が関西支部の半数を占めていたこと。そのため集会等の地域的な不便があること。兵庫県内有力者の浮上を図りたい意向があったかも知れないが、そこまでは解らなかった。
津田氏が支部長になる前からその提案をしていて沙汰止みになったが、支部長として再提案すれば可能性があると考えたのかも知れない。が、結果的には可能ではなかった。このことは関西支部の分裂を図ったとは思われず、悪意があったとは全く考えられない話と思っている。
チロルスキー前史
金井健二会員の世話するチロルスキーは10回を数えるまでになった。よく続いてきたものだと思う。金井さんの熱意と現地で世話していただくサポーターがあったこと。それに金井さんは関西支部の行事でチロルヘ行かねばならんと家では公然の理由があったからと漏らされたことがある。
このツアーを計画する2年前に、金井さん達とチロルヘスキーに行ったことがあった。インスブルックをベースにしてあちこちのスキー場を訪れたが、日本に帰ってからこんなツアーを関西支部で計画してみてはどうかと金井さんに持ちかけたのが
動機だった。一回目のツアーには参加したが、それ以後私は遠慮している。
最近は会員外の参加者の方が多いらしいが、人数が多ければいいというものでもなく、もう少し少人数で会員の親睦のできる方法を目指した方が望ましいと、提案した立場としては思っていて、できれば10回を機会に内容を再検討して欲しいと考えている。
天高の小屋
昭和52年3月に明神平の下にある天王寺高校の山小屋「あしび山荘」 へ関西支部の委員で遊びに行こうと、今西さんはじめ10人くらいで出かけたことがあった。まだ雪があって寒く、背の低かった小屋の中で薪を燃やすのに半分生木だったのか火付きが悪く、小屋中煙だらけで皆目をこすりながら炊事したのを覚えている。
一昨年金井さんの誘いで、建替えたという新しい 「あしび山荘」を訪れた。どうも前回とは建っている場所が違うように思ったが、とにかく立派な山小屋でびっくりした。頑丈な木組みで広く、二三十人も寝られそうな天井の高い小屋だった。日帰
りだったから炊事はしなかったので煙はどうかわからないが、恐らく大丈夫なんだろうと思う。 |