◆ 自然とは何か
ヨーロッパの国は全体的に日本より遥かに自然が多いように感じられる。町を出るとすぐ畑や森が広がっている。自然と戦うことを心情として森を切り開いて町を形作ってきた歴史があるからであろう。日本や東洋には自然を敵対視する思想は無い。
ところで、自然とは何なのだろう。少し前まで「天然自然」と言う言葉があった。恐らく全く人工の加わらない自然状態を指したものだと思うが、自然の多いドイツでさえ昔からの自然は残っていないと言う。ドイツ南西部の黒森シュワルツワルトも人工林だそうだ。
考えてみると、地球上に存在する物の発生の起源は天然と人工の二種類しか無い。自然というのは別の範疇の表現になる。
こじつけてみると自然の範囲の中に天然があり人工的自然があるような気がする。人工はあくまで人間の行為の結果のように思うが、例えば人間が種を播いて植物を栽培するのと、鳥が木の実を食べて種を撒き散らして植物が生えてくるのとを考えると、何の違いもない行為だと言える。
また、人間が木を切り倒すことと、鹿や熊が樹皮を剥いで枯れさせるのとあまり違いはないが、動物の行為は「自然の成り行き」として認められている。人間も自然界の一員であるはずだが、ことさらに区別するのは自然に対する影響が他の動物に比べて格段に大きいためであろう。或いは火を使うことからの区別だろうか。
言葉に戻って、「天然」というのは古代からの地球上の物質に一切人工を加えていない状態の表現のように思う。「自然」とは人工の加わっていないように見える地球上の物質の表現で、誠に曖昧な姿ではないだろうか。過去に人工が加わっていてもその付近の環境に沿っていれば自然として取り扱うこともある。初めの挙げたドイツの自然的景観がそれである。
そのようなことで、人間以外の動物の係わりは無視して、統計で見ると日本には天然林が人工林の1・3倍あることになっている。ただしこの天然林の定義が解っていないので実際にはどうなのだろう。簡単に言えば人の入っていない地域のことかも知れない。その天然林に広葉樹は針葉樹の3倍程度あるが、人工林では広葉樹はゼロに近く、山を歩いて広葉樹があれば天然林だと思っていいのか、この点は疑問ではある。
われわれが山の中に入って道があればそれは林道だから人工林の山だと思う。日本は不思議と広葉樹の人工林が殆ど無い。建築材だけを目的とした針葉樹林ばかりで、特殊な樹種か地域で育成している樹種でない限り広葉樹の人工林は見当たらない。
それほど針葉樹を育ててきたにも拘わらず、木材の輸入量は世界一だそうだ。林業に従事する人が減少して戦後植林した森林の手入れをしないから、適正な材の生産ができず、国産材のコストアップを招いて山に木はあるのに輸入に頼るという矛盾した悪循環に陥っている。
すべてがそんな傾向であるわけではなく、中には手入れの行き届いた山を見ることもあるし、山の価値が下がっているのを見越して、地方自治体の中には山を購入して自然保護を広めようとする意欲的なところもあるがそんな例は少ない。
◆ 「自然再生推進法」を考える
自然保護とは以上のような意味を根底とした、現状保存または生物育成の人間の行為なのである。ただ、最初に述べたように「自然」とは何なのかの定義が明確では無い。日本人全体が、破壊されていない地球上の物質を「自然」なのだと漠然と捕らえているように思う。新しく発効しようとする「自然再生推進法」などというものも、この表現がいかにも人工的手段である内容を思わせて感心しない。
言葉の表現だけで解釈していた「天然自然」とは、実は「天然である自然」の意味ではないかと思い出した。人の自然観の中に天然があり、それと平行して自然がある。「自然」というのは人工が加わっていても、元来地球上に存在した事物や現象らしく見えるものの総称で、「天然」とは地球発生以来、全く人工が加わらずに存続してきた事物や現象を指すもので、例えば気象現象によって森林が枯死するような変化はあったとしても、人工の加わっていない姿のことであろう。従って、自然の中に天然と言う範囲が存在することではないかという説明をしたかったところだ。
天然林であろうシベリアの森林の真っ只中で生活してみても、生活のために人工が加わり自然破壊が起こる。この意味でも、人は地球上で先細り行く天然ばかりを追い求めるわけにいかない。たとえ人工であっても自然らしさが出現できれば満足しなければならない時代だとも言える。白神山のぶな植林、高尾の森の植林、ぶなを植える会の活動など、いずれも自然らしさを次代に残そうとする運動である。
「自然再生推進法」という表現は、人の手に負えない天然には触れずに、自然らしさを創り出そうとする意図を狙った表現であろう。言葉の意味は解らなくは無いが、条文の表面的な解釈でなく、法律の意図する所がもうひとつ理解できない。条文の一方的な解釈を楯にとって行政の勝手な手段を講じられるのではないかという不安が無くは無い。それほど今の一般市民は行政に対して不信感を抱いている。「役人は何故うそをつくのか」を読むまでも無く、役人が一歩踏み出してからでは後へ引き返せない処理に苦しんでいることは解るが、時代と人の心理と将来への思考が不足しては、いつの時代でも問題になってきたことの繰り返しだ。政治家が正常な道を捻じ曲げる原動力であることも世界中同じだ。
「自然再生推進法」が将来への正常な道を示したものとして国会で承認されたとしても、実施機関となる行政の解釈に係わるところが多い。ダムや原子力発電所の建設中止という前代未聞の現象がある一方、高速道路が紛糾している。自動車産業の強力な後押しあるためか、狭い日本にこれ以上自然を破壊しての道路が必要なのか、誰が判断を下すのだろう。誰も決断できないほど現在の日本人には、自然に恵まれてきた国土を維持しようとする愛国心が欠落してしまっているのだ。
自然保護とは愛国心のあらわれの一つである。「自然再生推進法」という言葉を聞いて、自然が再生できるものか、思い上がりもいい加減にしろと思った。しかし、この点は慎重に考え直すと前述のような解釈ができる。
現在の自然保護は、天然を維持する。自然を破壊しない。破壊された自然を元通りでなくても自然らしく、自然の環境が備わるように育てようとする運動と言える。
植樹のための下刈りや幼樹の蔦払いも、自然に生え、伸びてきた雑草に対する一種の自然破壊かも知れない。エゴの動物である人間の目的が木を育てることで自然の動きを野放しにすることではないため、これは人工による自然らしさの育成であって人工林になるのだが、後代の人には見分けがつかなくなる可能性はある。これを「自然再生推進法」という表現で捕らえているのかもしれないと思う。であれば目的は解るのだが、自然に未知な同族を集めた委員会等での結論で強行しようとしてきた信用できない行政の手段が改まらない限り、今後も問題を残すであろう。
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