北京からウルムチヘの機上からは、行けども行けども禿山ばかりしか見えない。そんな山の中にもあちこちへと通じる道が見える。辺りに家は全く見えないから禿山の中を歩いても仕方が無いだろうに、林が枯れたのなら残った枯れ木が見えそうなものだが、それらしいものは一切見えないから、この禿山は薪を採り早くした挙句の果てなのではないだろうか。黄河中流の黄土高原も樹林を切り早くした結果だと聞いたが、この広い中国でも世界一になろうとする人口が天然のエネルギーを求めると無残なことになる。
禿山が途切れると赤い平地が拡がってきて、それはただ平らで何も無い。所々に池が見えるからタクラマカンにしては現れるのが早すぎる。そんな平地が切れ切れに続いた後、白い見渡す限りの平らな広がりが現れた。
地図を出して見るとウルムチヘの方向にはタクラマカンは無いはずだ。砂漠を期待するから何でも彼でもタクラマカンかと思い勝ちになる。 そのとてつもない広がりに模様が現れ出した。どう見ても水の流れた跡のように見える。或る一点から扇状に多数の線が広がっていると思うと、次には平行した多数の線が、全く無目的なあらゆる方向に縦横無尽に入り混じった跡が出てきて、そんな広がりが遥か空の果てまで広がっている。
この水の流れの跡と思われる線は、殆ど雨の無い地域に大量に降った雨が地形によって流れ始めたのだろうとは想像できるが、縦横無尽に流れるとは、砂丘も無い平らな地形では風などに左右されてどちらへでも流れるのだろうか。
ウルムチの飛行場は新しい建物だ。ここでは天池を観光して夕方の便でカシュガルヘ飛んだ。天池までの川沿いの道は荒れて、コンクリートの橋が幾つも水流で破壊されている。夏の異常気象は日本ばかりではなかったようだ。
カシュガルヘは夕方のフライトになるので、天山が見えるかとガイドに聞いたら見えるという返事。天山南路沿いに飛ぶのだろうと勝手に想像してボグドオーラを見ようと右窓の席に座ったが、既に暗く、それらしいものが見えない。気がつくと飛んでいる真下に雪の山が見える。暗くなって形もはっきり見えず、ボグドオーラは見分けられないまま天山の真上を飛んでいたのだった。
カシュガルで初めて羊と野菜が主体のウイグル料理の夕食を食べたが、以後毎日朝昼晩の毎食同じメニューに悩まされることになった。
翌朝早くから3600mのカラクリ湖へ行く説明の中で、現地ガイドが高年者には酸素が必要だと執拗に勧めるので、最近心臓が気になっている私は頼んでおいたが、翌朝渡されたのは西洋枕くらいの大きさのゴム袋に吸い口の管が付いた嵩張った代物だった。そしてカラクリ湖へ着いて見ると、幾つもの他のツアー客は誰も西洋枕をかかえていない。どうやらガイドの小遣い稼ぎに乗せられたらしい。
カラクリ湖への道はすさまじいものだった。水で崩れた所もあるが、切り開いた崖が凄い。岩盤を荒っぽく削り取っただけとか、工事のときに崖に残った小屋のような大きさの岩の塊が、危なっかしく引っかかっている所とか、ガレの斜面に上から落ちてきたトラックくらいの大きさの岩が止まっていたり、日本では考えられない危険一杯の道が次から次へと続いている。こちらは雨が無いから崩れることが無いのかと思うが、現地の人は平気で車で通っているのに感心する。
インドのガルワルで車に乗って下山していた知人が、崖からの岩に当たって亡くなったことがあるから、ここもいつまでも安心はできないが、事故が起こると車がベタンコになるからヘルメットは役に立たない。
こんな道の途中にはトイレなど無いから、辺りに何も無い道端で事を停めてトイレ休憩になる。すると何処から出てくるのか現地の女子供が現れて、道端に赤い山珊瑚や青いトルコ玉の首飾りなど、色々な土産物や小さい子供まで自分の玩具のようなものを並べて商売が始まる。
たどり着いた真っ青なカラクリ湖の先にムスターグ・アタとクングールが白銀の輝きを見せて横たわっている。7000mもあるのに左程たかく感じないのは半分くらいの高さまで登っているからだろう。そんな景色の中に建った一軒の新しい洋式のレストランはいかにも不似合いだ。
カシュガルの職人街は面白い。あらゆる仕事の職人達が軒を並べて街を作って、家の中で作った物を通りにいっぱいに並べて売っている。木工細工、ブリキ細工、銅鍋、建築金物、羊の頭の黒焼き、シシカパブ、野菜、楽器、木で作った蒸し器、靴の修理等など、あらゆるものが並んでいるし、商品を作っている様子を見ることができるので、見ていて飽きることが無い。銅のやかんの表面に模様を彫りこむのは、やかんを股の間に挟んで模様の見本も何も見ずに細いドリルの先のような刃物を使って手で自由に彫っていくのだ。
楽器屋へ入ってみると天井からいろんな楽器がぶら下がっていて、大きいマンドリン風のものから、オモチャの飾りのようなミニチュアの弦楽器まで、見たことも無い楽器が所狭しと並んでいる。殆どが弦楽器で、奥の部屋では胴を作り、入り口に座った男は弦を張りながら楽器を奏でて客を引いている。
西洋楽器の常識からすると意外に大きい音が出るようだ。ミニチュアでもちゃんと音階が出るようになっている。日本の琵琶は中国から来たらしいが、ここには琵琶の原型やら変化したものやらあらゆる種類が並んでいる。シルクロードの楽器に興味のある人には堪えられない所に違いない。
ルートはウルムチからカシュガルヘタクラマカン砂漠の北を西へ辿り、南のホータンヘ砂漠を回りこむ形で移動した。
この途中には幾つものポプラ並木を通るが、ポプラの木は見慣れた日本の木より枝が外へ張らずにほっそりしていて、しかも木の間隔が1メートルから50センチくらいまで密植してある。だから写真で見るシルクロードのポプラ並木のカッチリ囲まった並木の姿になる。
しかし近寄ってみると、このポプラは幹が白くてツルッとしていて皺が無い。しかも葉は見慣れた丸い形でなく、五叉に分かれている。明らかに日本のポプラとは品種が違うのだ。日本に帰ってから手元の資料で調べると 「白ポプラ」 とか 「新彊ポプラ」 と呼ばれる種類があるらしく、更に専門家に聞いてみると、それはイタリヤヤマナラシで葉の形から見るとギンドロ・ウラジロハコヤナギであると教えてくれた。
ホータンではホータンダリヤの河原で玉 (ぎょく) 拾いをしてみたが本物は拾えなかった。ホータンの玉は有名で今でも河原に玉はあって、現地の人が売りに来る。日にかざして半透明のもので、表面がヌメッとしているのが本物だという。
玉は硬い石だと思っていたが、流れで揉まれて表面がツルツルになるのと、彫刻加工には普通の材質の細いドリルで削ることを見ると案外軟らかい材質かも知れない。玉は全て白いのかと思っていたが、緑色のも玉の範囲に含めていて、これはエメラルドだった。今では上流地域でブルドーザを使って河原を大量に掘り返して拾い出すらしい。
現地の博物館の人の話では、最近玉の価格が急速に上がっているという。我々には玉の価値は判らないが、中国では希少価値から価格上昇の傾向なのか、それとも土産物を買わそうとの意図なのかわからない。
ホータンからホータンダリヤ沿いの、昔スウエン・ヘディンの通った道に入るのかと思ったがそうではなく、新しくできたニヤからの道を辿るのだった。
早朝に朝食もせずに 「沙漠公路」 のゲートをくぐつて砂漠への道へ入ると、しばらくは木も生えた草原を走る。今日は砂漠での日の出を見るために早く出発したのだが、草原が切れないまま日が昇りだした。
黄色がかったオレンジ色の日が、輝きを見せずにやや平べったい形で地平から現れる。オレンジ色から上空で淡青色に変わっていく大気の中をみるみる大地を離れていくが、白い円板のような姿で光を放射せずに次第に丸くなっていくのは、大気が黄砂に濁っているのだろうか。
草原の草や木が次第にまばらになり、やがて砂ばかりの大地へと移り変わっていくが、道の両側には背の低い草が続いている。それは砂防のために植えた草類のようだ。

近くの草は道路の砂防のために植えたタマリスク
見ると舗装した道路の両側の砂地にポリエチレンの細い管が7、8本、1メートル程間隔を保って道と平行に何処までも敷いてあり、何十キロか毎にポンプ小屋を建てて送水している。
管に一定間隔の穴をあけて水を砂地に供給して植物を育成しているのだ。水の出ているところには草か木かわからない植物とか新彊ポプラを植えて育てている。その植物帯の更に外側に防砂綱が平行して張ってあるが殆どが砂に埋もれている。
それら植物の中に薄紅色の小さい花があり、ガイドにタマリスクだと教えてもらったが、近くで花を観察すると、それは茎から出た細く縮れた薄縁の葉と同じ形をしていて、茎の先端部分についた葉が赤く変化したように見える。
本には柳の一種の落葉小喬木で、6月と9月に薄紅色の花をつけ、秋の花に実がなって根は燃料に使えると書いたものがあるが、この花が本当にタマリスクなのだろうか。別の骨ばかりのしゃっちょこ張った草はソクソクという名前らしい。
タマリスクはスウエン・ヘディンの中央アジアの砂漠の紀行文によく出てくるので、一度どんな植物か見たいと思っていた。
オックスフォードの本の中に「ギョリュウ科、低木または高木、微細な花は穂状花序」等と簡単に解説してある。
砂丘は見上げるほど高い峰になっているときもあり、山の斜が近ずくと表面に細かい波状の縞が入っているのが見える。
道路を作るときに道路脇へ排除した砂の堤防ができているため、なかなか遠くを見通すことができない。でもときどき堤防が低くなると、遥か速く地平の彼方、気も遠くなりそうな彼方まで砂の波が細かく波打っているのが見える。その圧倒的な広さ。
ヘディンのような探検家は別として、我々のような人間がこの波の中に放り出されたらどうなるだろう。出口もわからず絶望して気が違ってしまうかも知れない。しかし昔から砂漠を駱駝で渡っている人なら、決して絶望はしないだろう。何処までもいつまでも執念深く砂漠に立ち向かって目的を果たすに違いない。彼等の世界には絶望という言葉は無く、執念と言うしぶとさが代わりにあるのではないか。このような環境にこそアラブ人たち特有の執念を育てた原因があるような気がする。
砂の波、褐色というか黄土色というか、一色の波と黒い影との模様が限りなく続く。道端のタマリスクと褐色の砂だけが延々と続くのだがいつまでも見飽きることがない。ときどき平坦な地形になって水が流れた跡が砂地が抉れた形になって現れる。しかしその流れる方向や蛇行の様子は一定していない。
それよりも第一、こんな砂地で水が吸い込まれずに流れるのかが理解しにくい。いつかテレビで乾期のホータン川にコンロンの雪解け水が最初に流れ下る様子を紹介していたが、流れの先端より先に地中に水が浸透している様子が写っていたから、乾いた砂地にも浸透した水が誘いになって表面を水は流れるのだろう。
トイレ休憩で何も無い砂漠の真ん中に停まったバスから降りて砂の堤防の上ヘタマリスクを掻き分けて登ってみると、風に飛ばされて積もった砂は軽く、靴がふわっと沈み込む感じがする。堤防の向うには野生の駱駝がいたり、ときには羊が見られるが、あれは飼っているのだろうか。その向うはおなじ砂の波と影との模様が無限に細かくなって行方も知らず続いている。
我々の走っている道路もどこまでも道端の草を引き連れて砂の波の中へ消えている。
ガイドの説明では砂の上に道路を作るために、砂を掘り下げてグリ石を敷き詰め砂利と土をかぶせてその上にシートを掛け、それを何層にも重ねて最後に舗装するという非常に手の込んだ世界一費用のかかる工事だったそうだ。
こんな砂漠の真ん中になんと言う地名か知らないが何軒かの家があり、食事ができるようになっている唯一の休憩所だ。トラックなども沢山止まって休憩している。土砂を満載したトラックもあって、平野の中でポンと立っている作業員が道路の補修をしている材料の補給なのだろう。
砂丘が次第に低くなり、草原に変わった頃、砂の平面の中に土饅頭が幾つもできて、その土饅頭の上だけ潅木が生えている。水を含んだ砂地は風にも飛ばされずに塊として残り、飛んできた植物の種子は水分が在るため成長してできた土饅頭だろう。
次には平面が塩で覆われた所が出てきた。最初は小雪が降った程度に白かったが、ときには見遥かす平らが全て白い広大な塩の平らも現れた。塩は地面の平らなところだけに出て斜面には出ないらしい。
しばらくしてタリム川大橋に出た。ここで全員バスを降りて650メートルの橋を歩いて渡った。タリム川はコンロン山脈から出てホータンを通り、タリム川となるので、ホータンダリヤはタクラマカン砂漠を南から北へ流れている。
このタリム川は海への出口の無い内陸河川としては世界第二の2100キロの長さで、西から東へ流れ、「さまよえる湖」ロプノールヘ注いでいたが、現在ロプノールは消えてしまったと言う。築造された大西海子ダムが原因ではないかとも言われているが、最近、ロプノールに水が戻ったとのニュースもある。「タリム砂漠公路」 と書いたゲートをくぐった付近は油田地帯で石油工場が多い。世界的に見て砂漠の地下には石油が貯蔵されている傾向がある。砂漠地帯は昔からの砂漠ではなくて森林に覆われていた時代があった。世界一のサハラ砂漠もタクラマカンもそうだ。地穀の変動その他の原因で森林が埋没して石油に変化したのだろう。地表の状態が人間の環境に適さないから石油の開発も大変だが、この何も無い砂漠を領有する価値は十分にある。
1896年にヘディンが渇きで死の手前まで苦しめられながら、30日かけて歩いたホータン河沿いの隣のルートを、私達は10時間と更にクチャまで2時間かけて通ったのだった。それは文明交流のシルクロードとは違った自然の脅威を残す西域の姿だったが、数多くの探検家の苦労を知るには余りにも近代化された旅だった。
この旅の途中で、幾つもの、日本では考えられない広大な規模の古城や遺跡が見られたが、莫大な費用を要するために殆ど修復の手を加えられずに崩れ去るまま放置されているのには心が痛んだ。
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